どんなダムキーワード検索:歴史


五十里
(いかり)
栃木県
ダム湖は「五十里湖」
江戸時代に日光大地震により天然の湖ができ、江戸日本橋から50里の距離にあるので五十里湖と、この辺りは五十里村と呼ばれた。その42年後に、五十里湖は長雨により決壊。その地に建設されたダムは五十里ダムと名付けられ、ダム湖は五十里湖と名付けられた。
五十里
(いかり)
栃木県
かつて日光大地震によってできた「五十里湖」があった
現在のダムサイトの1キロほど上流に、天和3年(1683)、日光大地震のとき山崩れによって天然の堰堤ができ、湖水が出現した。江戸日本橋から50里の距離にあることから、五十里湖と呼ばれた。その後、享保8年(1723)8月、雨が続いた後に、決壊して洪水を引き起こした。このときに、温泉がわき出すのが発見され、これが今の川治温泉。また、下流の岩が削られ、竜王峡の峡谷ができた。五十里ダムはこの地に建造され、新たにできたダム湖もまた五十里湖と呼ばれる。
犬上川
(いぬかみがわ)
滋賀県
水争いの歴史
かつて琵琶湖周辺の河川は用水をめぐる村どうしの争いが絶えなかった。犬上川もその一つ。昭和7年(1932)夏の旱魃時には,一ノ井の井堰から取水する村々と一ノ井の漏水に頼る二ノ井から取水する村々との間に大規模な紛争が勃発。「農民四百余名竹槍かざしてにらみ合う」と新聞に。
大滝
(おおたき)
奈良県
後南朝の歴史が
川上村は、後醍醐天皇から発する後南朝最後の自天親王とその弟の忠義王の歴史が残るところ。忠義王は川上村神之谷に御所をおいていた。長禄元年12月2日、大雪のなか、二人は赤松家臣団に殺害された。南朝を擁護する川上郷民は追走、反撃して、首級と神璽を取り返したという。両皇子の御首は川上村神之谷にある金剛寺に手厚く埋葬された。自天親王が即位した2月5日には、今も毎年、金剛寺で朝拝式が厳粛に行われる。
上椎葉
(かみしいば)
宮崎県
平家ゆかりの地
椎葉村は、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党が逃れ住んだところという。追討軍である源氏の大将那須大八郎と、平家の佳人鶴富姫との悲恋物語が伝わる。史跡鶴富屋敷は現在も観光客を集める。
九頭竜川鳴鹿大堰
(くずりゅうがわなるかおおぜき)
福井県
歴史ある堰
この地には江戸時代から農業用水の水源として、川の中に石積みの堰が作られていたが、戦後、大がかりな農業用頭首工が建設され、昭和30年に完成。その後、頭首工が老朽化したこと、水道用の水需要が増大したことなどを背景に、建設省が多目的ダムとして再開発を行った。これが、現在の九頭竜川鳴鹿大堰。
山王海(再)
(さんのうかい)
岩手県
水争いの歴史
山王海地区は、水田面積に比べて水源の流域面積が小さく降雨量も少ないことから、深刻な水不足に悩まされ、水争いを繰り返してきた。「志和の水けんか」といわれ、記録に残るものだけで36回も。天保4年、天保11年、慶応元年、明治33年、大正13年の水争いは、死者を出すなどの大騒動。昭和27年、旧山王海ダムが完成し水争いの歴史にも終止符。
船上山
(せんじょうざん)
鳥取県
近くに船上山
ダムの西1.5kmほどのところに船上山がある。標高616m。山容が船底の形に似ていることからこの名がある。断崖が有名で、溶岩の冷え固まった断崖が数キロにわたって続く。また、船上山は、その昔後醍醐天皇が隠岐より脱出して籠城した地としても知られる。ダム湖を挟んで眺める船上山の姿は素晴らしいという。