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4.高知県の水害

 高知県は、地形上、気候上、多雨地帯、台風常襲地帯であることから集中豪雨や台風による多くの水害を被ってきた。
 戦後昭和20年〜45年までの主なる水害を追ってみると、

昭和20年9月 枕崎台風
  28年9月 23号台風
  29年8月 5号台風
  34年8月 6号、15号台風
  35年8月 16号台風
  36年9月 第2室戸台風
  39年9月 20号台風
  40年9月 23号台風
  43年7月 7月台風
  45年8月 10号台風

と続く。この昭和45年8月10号台風(土佐湾台風)の被害者が綴った、古沢和子編『その手を放すな』(「その手を放すな」出版委員会」・昭和48年)から、赤裸々な体験をそのまま引用する。

1) 冷蔵庫の上の七時間(高知市五台山東倉谷 岡本菊美 (65歳) )

【「あっ。雨戸が飛んだ、文子さんはようきて」
 私は大声で娘を呼びながら、外へ飛び出して行った。娘も続いて走ってきた。強い風雨の中でずぶぬれになって、二人で雨戸をはめようとしたが、どうしてももとのところへは入らない。仕方がないので雨戸を外へ置いたまま家のなかへ戻った。外れた戸の合い間から、縁側に水が流れ込んできた。
「こりゃいかん、おおごとじゃ」
 と私は急いで畳を上げようとした。まごまごしているうちに、畳は下からむくむくと浮き上がって座敷いっぱいの水になった。
 とにかく早く逃げなければ溺れてしまう。私は急いで非常袋を持ち出し、たんすの引き出しから紋服や外出用の衣類を取り出し、洋服だんすの一番上に上げた。これも一時の気休めで、何の役にも立たなかった。つぎには、仏壇の位牌を非常袋に入れて、台所へ逃げた。娘は犬を浮いた畳の上に避難させて置いて逃げた。そのときは台所ももういっぱいの水で、あらゆる物は倒れて浮いている。倒れていないのは流し台と冷蔵庫だけ、それも水の中でゆらゆらと動いて、不安定だけれどとこれより他に足場はないので、娘は流し台に、私は冷蔵庫の上にあがって、やっと溺れるのをまぬがれた。
  −略−
 隣の清岡さんは、
「今度満潮になったら、今よりずっと水が増してあぶなくなるから、今のうちに私の家にきなさい」
 と親切に私どもを助けにきてくださったのであった。この時のうれしかったことは、到底言葉には表せない。私はすぐ娘と犬とともに、実に七時間振りに冷蔵庫から降りた。私の命を助けてくれたこの古びた冷蔵庫よ、ほんとうにありがとう。まだ胸まである水の中を一面に浮いたごみを掻き分けながら外に出た。】

2) 電話拷問(高知市五台山 坂本昌子 (45歳) )

【 暗やみの中でローソクが鬼火のようにチロチロ燃えていた。
 台風はすでに去り、不気味な静寂があたりを圧する中で、電話だけが狂ったように鳴りつづけていた。泣きながら援助を乞う人、狂人のようにわめきたてる人、ねっちりといやがらせを言う人、二十五万の市民がいれば性格もさまざまである。夕食をとるひまはなかった。かかってくる電話をひとつひとつ市役所へ報告し、私は歯をくいしばって空腹とのどのかわきに耐えていた。
 電話の前から一歩も動けないままで夜が明けた。
「市長の家かね」
 中年の女性らしい声である。
「はい、そうです」
「おまえさん、女中かね」
「いいえ、家内です」
「市長を出せ。すぐに電話に出せ。居留守を使うたら、おんしんくへ火をつけるぞ」
「主人はずっと市役所へ泊り込んでいます。こんなときに家にいるわけはないじゃありませんか。居留守など使っていませんよ」
「市長。なぜこんなに雨を降らした。わしは許さん」
 極限状態におかれたとき、人間はこれほどめちゃくちゃになるものだろうか。
  −略−
「私たちは旭小学校で、手の皮がすりむけるほどおにぎりを作りました。それなのに市長夫人のお姿は見あたりませんでした。被災者が死ぬほどお腹を空かせているのに、市長夫人はご自宅でおひるねですかね」
「焚き出しなら他の人でもできるが、市長宅へかかってくる陳情電話を、市役所へ報告できるのは奥さんだけです。この際、焚き出しの手伝いには目をつぶってください」
 という市役所の命令に従ったままである。
 夫が市長の座にあるかぎり、歯をくいしばって耐えなければならない宿命ともいうべきものだろう。】


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