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明治34年の信濃川測量図

これは、本田典光様の投稿です。

1.はじめに

 国土交通省信濃川下流河川事務所は、ホームページで「明治34年の信濃川測量図」という大河津分水路付近から信濃川の河口までの区間を明治時代に測量した縮尺1200分の1の平面図の縮小版409枚を公開している。実物の平面図は、新潟県立図書館に保管されているそうだ。
 明治時代とはいえ目的もなく信濃川下流部約60kmの区間を測量するはずがないと思い調べてみると明治19年に国と県が共同で「信濃川堤防改築工事」に着手しており、その工事の施工状況を確認することが目的の図面だったと考えられる。
 平面図には新たに築堤した堤防を朱色の線で記入しており、堤防の他に護岸や水制等の施設の設置状況を記入している。
 信濃川下流河川事務所で聞いた話では、平面図が入っていた箱に「明治34年」と記載されていたので、「明治34年の信濃川測量図」という題名で公表したということであったが、明治34年というのは測量の「外業に着手した年」なのか、「外業を終了した年」なのか、「内業を含めて測量を完了した年」なのかということが気になった。

2.平面図の数

 HPで公開している平面図は全部で409枚であるが、事務所に平面図の縮小コピー(紙ベース)があるというので見せてもらった。
 紙ベースの縮小コピーを確認していたら公開している409枚の他、HPで公開していない再測量図が97枚あり、公開している平面図の測量実施後に追加施工した施設(護岸や水制等)の個所を測量したもので、事務所に保管されていた平面図の数は全部で506枚であることがわかった。
 しかし、平面図に添付されている図面番号を示した「信濃川台帳一覧表」には図面の数が391であるとの記載があることから、当初計画した測量範囲より最終的には測量範囲を拡大して実施したと思われる。

(信濃川台帳一覧表)
図面番号は河口部から上流に向かって番号を振ってある。
また、図面が横並びの場合は右から左に向かって番号が振ってある(現在は左から右に番号を振る)ことが現在の図面の並びと違うところである。


(信濃川台帳一覧表の部分拡大)
3.測量実施時期の推定

 測量時期は明確ではないが、明治19年に古市公威が計画した「信濃川堤防改築工事」に国と新潟県が協力して着手(河身改修は国庫負担、堤防改築は県負担)し、明治35年に工事が竣工していることと明治29年に越後平野で未曾有の大洪水である「横田切れ」が発生したことで明治30年に内務省新潟土木監督署が大河津分水路工事のための測量・設計に着手し、明治34年に完了したという記録があることから、本平面図は信濃川堤防改築工事の竣工図として明治30年から35年の間に新潟土木監督署が測量・作図したものと思われる。
 当該平面図で新潟市内の状況(都市部では施設の変化が認められる場合がある)を確認すると明治32年に信濃川の洪水が逆流するのを防止するため信濃川の支川栗ノ木川に設置した石造水門の記載や明治30年に開通した沼垂停車場までの鉄道線路が記入されていることから、明治32年以降に測量が行なわれたことがわかる。

(栗の木川石造水門)

(沼垂駅付近)
(小須戸橋地点にある「渡し」)

以上のことから、「明治34年の信濃川測量図」は、明治32年頃に測量に着手し、明治34年に外業をほぼ終了したと考えることが妥当と思われる。

4.追加施工部分の測量実施時期の推定

 測量を実施した後に追加施工で施設を設置した個所については、その追加施工した部分の範囲のみを再測量している。(変化のない平面図の部分の測量はしていない)
 また、再測量図面の表題は、「第◯◯号の内」という表示になっている。

(追加測量の平面図)
また、再測量の平面図に明治37年に開業した旧新潟駅の駅舎と沼垂駅から延伸した線路の記載があるが、営業を開始した後なのか、施設の整備が終わり営業直前の頃なのか判断できないが、再測量は旧新潟駅までの線路が記入されていることから明治36年以降に測量されたと考えてよいと思う。

 (中央部分に駅舎があり上部から鉄路が斜めに走っている)
5.その他の平面図

「信濃川台帳一覧表」には、大河津分水路分岐点より上流部の測量(「信濃川台帳一覧表」の左側「台帳切図 総計563枚」と記載されている部分の直下で615〜799までの番号がある)も表示されていることから長岡市付近まで測量範囲であったことが推定される。その大河津分水路分岐点より上流部の平面図の存在は確認できないが、長岡市にある信濃川河川事務所の倉庫が昭和30年代に漏電による失火で消失していることから、その時に消失した可能性がある。
 その他、信濃川下流河川事務所の縮小コピーの中に小阿賀野川に関係する部分の平面図(沢海付近)も数枚含まれていることから、信濃川と同時に小阿賀野川の測量も実施したもとのと思われるが、その範囲や目的は不明である。

6.前川國男氏の父、前川貫一氏のこと

 新潟市美術館を設計した建築家前川國男氏は明治38(1905)年に新潟市で誕生した。彼の父である前川貫一氏は、新潟に設置された県の施工する土木工事の監督と河川砂防直轄工事を所掌する第三土木監督署に明治31(1898)年に赴任した。
 明治37(1904)年に当時新潟で生活していた旧津軽藩士の家に生まれた田中菊枝(きくのえ)と結婚し、翌年に前川國男氏が誕生した。
 明治31(1898)年から約10年間、第三土木監督署で県工事や直轄工事の監督をした前川貫一氏は当然「信濃川堤防改築工事」にも関係し、この平面図を見ながら県の技術者を指導したのではないかと思うとロマンを感じる。

※添付した図面は、信濃川下流河川事務所のHPまたは事務所にある縮小平面図から引用した
(2019年5月作成)
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