1.はじめに みなさんは、「高遠」と聞いて何を連想しますか?ほとんどの人が、「桜」を連想したことでしょう。 桜の名所として名高い高遠城址公園は、明治8年から植えられ、 樹齢100年以上の老木を含めた1,500本以上の「タカトオコヒガンザクラ」が4月中旬〜下旬に薄ピンク色に咲き誇り、 「天下第一の桜」に全国からの見物客で賑わいます。 2008年4月、私も高遠の桜を求めて長野県伊那地方に行ってきました。 小高い丘全体が桜色に染まる様は、それはそれは見事でしたが、なにせ全国各地から押し寄せる人、ひと、ヒト・・・。 少々疲れ果てていたところ、「ここからすぐ近くにある美和湖に行けば、のんびりと美しい桜が見られるよ。」とのおいしい情報が。 早速行ってみたところ、満開の桜に彩られたなんと美しいダム湖でしょうか。 そんなわけで、今回は「美和ダム」と「美和湖」を紹介します。 |
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2.美和ダム 高遠城址公園のすぐ裏側に、高遠ダムがあります。その上流約2km、白山トンネルを経て道なりに車で5分ほど進めば、右手前方に美和ダムが見えてきます。 そのまましばらく進み、「美和ダム管理支所」の看板が見えたところで右折すると、美和ダム右岸天端にたどり着きます。 天竜川最大の支流であり、仙丈ヶ岳に源を発する三峰川は、60 kmで2,000mの高低差を持つ急流で、中央構造線をはさんで急斜面が川の両側に迫っています。 また、幾筋もの急峻な谷筋があるため、雨が降ると土砂や倒木を一気に下流に押し流す暴れ川でした。 戦後の復興期に、三峰川流域の治水事業および灌漑・発電・砂防事業の整備が行われ、「高遠ダム」「美和ダム」が計画されました。 美和ダムは洪水調整、電力の供給、灌漑用水の供給を目的として昭和27年に工事着手し、昭和34年に完成した重力式コンクリートダムです。 |
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ダムの右岸天端付近には2004年に完成した管理所(美和ダム管理支所)があり、その1Fには美和ダム広報室「みわっこ」という美和ダムを紹介する部屋があります。 なお、美和ダムについては、国土交通省中部地方整備局 天竜川ダム統合管理事務所 HPに詳しく書かれています。 |
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3.三峰川総合開発事業 天竜川流域は、昔から度重なる洪水の被害に悩まされてきました。天竜川の洪水の特徴は、水とともに多量の土砂が流出することにあります。 天竜川の支川である三峰川に位置する美和ダムでも、昭和34年の完成以降、平成17年までに約2,000万m3もの土砂が堆積しました。 そこで、国土交通省では、「三峰川総合開発事業」を現在推進しています。 「三峰川総合開発事業」は、三峰川及び天竜川上流部の周辺に住む人たちが、将来にわたって洪水のない安全で豊かな暮らしが維持できるように、 三峰川上流部に多目的ダムである戸草ダムを新たに建設する「戸草ダム建設事業」と共に、 上流からの土砂が大量にたまってしまった美和ダムの貯水池堆砂掘削およびダム機能の恒久的維持を図る恒久堆砂対策を行う「美和ダム再開発事業」の総称です。 なお、三峰川総合開発事業については、国土交通省中部地方整備局 三峰川総合開発工事事務所 HPに詳しく書かれています。 |
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4.美和湖 美和湖は美和ダムによってできた南北に長い貯水池で、左岸側には山が迫り、一方右岸側には集落や農耕地があるため、 多彩な自然環境を作り出しています。 湖周辺は動植物が豊富であり、特に昆虫類は2,000種近くが生息しており、貴重な種類も数多く確認されています。 周辺は公園として一体的に整備され、特に美和湖の右岸側には遊歩道が桜並木とともに続き、気持ちの良い散策道となっています。 高遠城址公園の人ごみを逃れ、疲れた心を癒すには、この美和ダムを訪れることをお勧めします。 |
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5.高遠の桜
「タカトオコヒガンザクラ」は、大きく見ればマメザクラまたはキンキマメザクラとエドヒガンの交配種の一系なのですが、 平成2年に高遠で行われた「国際さくらシンポジウム」で、コヒガンザクラとしては新種で高遠固有の種類であるとして命名された貴重な桜なのです。 例年なら、4月中旬から下旬ころに開花します。高遠の桜情報については、伊那市観光協会 高遠支部HPを参照してください。 |
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6.高遠城址公園 高遠城址公園は、三峰川と藤沢川によって削られた川敷きから80mの小高い断崖上の突端にあった高遠城の跡に整備された面積5.4haの公園です。 明治4年(1871)の廃藩置県により、翌年には高遠城の建物は民間に払い下げられ、旧藩士達が桜の馬場から桜を移植した城跡は、明治8年(1875)に城址公園となりました。 高遠城の歴史は、南北朝の時代に遡ります。戦国時代、高遠城を攻め取った武田信玄が、天文16年(1547年)に修築を行って以来、武田氏の統治下にありましたが、 天正10年(1582年)に仁科盛信(武田信玄の五男)が織田信忠(信長の長男)率いる大軍との激戦の末に壮絶な最期を遂げ、高遠の武田氏は滅亡しました。 城址いっぱいに咲き誇るコヒガンザクラが他の桜に比べて赤いのは、この時に流された将兵の血潮の色だといわれているそうです。 高遠藩の初代藩主となった保科正光は、徳川秀忠の隠し子を嗣子として預かり、保科正之として育てました。正之は高遠藩主を継ぎましたが、 徳川家光の代になって出羽山形20万石に加増転封され、交代に鳥居氏が入城しました。 その後、内藤氏3万3千石を最後に藩政は終了しました。 明治維新後、城は取り壊されましたが、明治8年、荒れ果てた高遠城址を見かねた旧藩士たちが、 かつて高遠藩の桜の名所だった「桜の馬場」の桜を移植したのがはじまりで、今では1,500本以上のコヒガンザクラが城址公園を覆いつくしています。 平日でも満開時であれば人出はかなり多く、国道152号から公園のパーキングに入るわずか1キロほどの道も、 車なら1時間以上を要するため、車はふもとの駐車場に停めて歩いて行きましょう。 |
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7.勝間薬師堂のしだれ桜 高遠城址公園とともに、高遠の桜のもう一つの見所である「勝間薬師堂のしだれ桜」は、高遠城址公園を南へ少し行ったところにあります。 高遠城址から高遠湖越しに山すそを見れば見つけることができ、城址公園から歩いて約10分ほどでたどり着きます。 車なら、白山トンネルを出てすぐのところにある公園に無料駐車場がありますので、そこで駐車します。 このしだれ桜は国道152号線沿いからも見ることができますが、ぜひ下まで行って見上げてみましょう。 |
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8.高遠そば ローメン、高遠まんじゅう、馬肉、ソースカツ丼など、食べものに関する伊那名物はたくさんありますが、 高遠山間部の家で作られ、「からつゆ」と呼ばれるみそ味のそばつゆで食する「高遠そば」を紹介します。
会津に「高遠そば」を伝えたのは、高遠藩二代目藩主から会津藩主へと国替えとなった、二代将軍秀忠の子で初代会津藩主保科正之公です。 この保科正之公は、東京の「玉川上水」をつくった人物ですが、実は大変なそば好きだったそうで、 蕎麦打ち職人や食べ方、辛み大根(高遠大根)を会津に伝えたとのことです。 現代の「会津の高遠そば」はしょうゆと大根おろしの絞り汁で食べますが、これは伝えられるうちに徐々に上品になっていったのでしょう。 元々の「高遠そば」は、みそ味の豪快で粗野なつゆだったのです。 その時代から現代まで、会津の地で「高遠そば」の名前と共に高遠の蕎麦文化が形を変えながら綿々と伝えられていたのですね。 長野県高遠と福島県会津。遠く離れた山間の土地で、それぞれの「高遠そば」が人々に広く親しまれているのです。 |
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9.アクセス 高遠城址公園、美和湖までの交通手段は、車かバスになります。 【車】 中央自動車道路伊那ICを出て左折し、標識通りに伊那市街地方面へ向かいます。 そこから、「高遠」の標識通りに進むと国道361号線に沿って高遠城址公園にたどり着きますが、ここは思い切って無視しましょう (特に桜の季節は混みますので)。天竜川を左手に見ながら国道153号線をしばらく下り、 伊那市役所が左前方に見えたら平成大橋を左折してナイスロードに入ってください。 そのまま高遠方面に進み、高遠公園手前信号を右折し、白山トンネルを経て道なり5分ほどに進めば、右手に美和ダムが見えてきます。 所要時間は伊那ICから約35分です。 ナイスロードは信号がほとんどなく、本当にナイスな道路ですので、高遠城址公園に行く際にもこちらをお勧めします。 【バス】 JR飯田線伊那市駅よりJRバス:市野瀬行きあるいは高遠行きに乗車してください。 ただし、便数が少ないため注意が必要です。 |
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