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《温井ダム音頭》



 ところで、温井地区の移転者が望郷の想いを綴った太田五二編『湖底の郷愁』(温井ダム対策協議会・平成10年)に、「温井ダム音頭」(作詞/大倉正澄・作曲/佐々木浩司)が載っている。このときまだダムは完成してないが、近い未来をすでに先取りした「音頭」に、そのダム造りへの意気込みを感じた。

  ハアー温井大橋アーチダム
     恵みの水の行く先は
     平和の都ひろしまと
     花とミカンの瀬戸の島
     ほんに良いとこ
      (ハ、ヨイショ ヨイショ)
     ホンニ ヨイトコ 温井ダム
 温井ダムの完成によって、広島都市圈に対する治水、利水、河川環境の安定性は向上し、公共の福祉が図られている。

 佐々木寿人会長は「来てくれと頼んだ覚えはない」の信念で、広島県、広島市の行政関係者、さらには企業者に対し媚びることもなく、「温井ダム方式」を貫いた。それ故に、一人の脱退者も出さずに27戸80余人をベストリードの基を築いた、といえる。昭和59年6月12日「わしもダムを見て死にたかったのう」とポツリと本音をもらし、その78歳の人生を閉じた。その後源田松三町長もまた平成3年92歳で逝去した。二人とも完成のダムを見ることはなかった。

 これまでの二人の言動から、加計町を含めた上流域、そして中流域、広島都市圏の持続的な発展を望んでいたことがわかる。ダムの建設は地域の発展につながらねばならない。


 ダムは広島市内から車で1時間程の至近距離にあり、年間35万人が訪れている。「来てくれと頼んだ覚えはない」と言えども、いまでは、佐々木会長も、源田町長も「温井湯の里 水どころ ほんに良いとこ ホンニ ヨイトコ 温井ダムに来てくれ」と、微笑みながら、呼びかけているような気がする。

    <古道を 沈めてダムの 水温む> (稲畑 汀子)


   ◇

 終わりに、太田川に関する書を掲げる。

 建設省太田川工事事務所編・発行『太田川改修30年史』(昭和38年)、同『太田川史・太田川改修六十年のあゆみ』(平成5年)、同『太田川治水経済調査』(昭和48年)、同『景観から見た太田川市内派川の調査研究・』(昭和51年)、中国建設弘済会編・発行『太田川高瀬堰工事誌』(昭和51年)、広島市教育委員会編・発行『太田川の水運調査報告』(昭和56年)、太田川・福祉の川づくり交流会編・発行『みんなで太田川を歩こう』(平成11年)、広島太田川ライオンズクラブ編・発行『がんばれ広島の太田川』(平成14年)、広島商工会議所編・発行『太田川デルタの水緑景観』(昭和53年)、井上浴著『太田川ー評伝・渡康磨・川漁師』(家族社・平成15年)、広島市企画調整局文化課編『太田川放水路・河岸の戦後史6』(広島都市生活研究会・平成4年)、同『太田川中流・河岸の戦後史7』(平成6年)、同『太田川上流・河岸の戦後史12』(平成13年)。


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