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1.萩藩の治水、利水事業

【潮音洞の掘削】
 慶長5年(1600)関ケ原の戦い後、徳川家康によって、毛利輝元、秀就父子は、中国8ケ国 120万石から周防、長門の2国29万石に減封されてしまった。東の岩国を吉川広家に西の長府を毛利秀元、中央部の右田(防府市)に宍戸氏、岩見境(須佐町・田万川町)は益田氏などに新地行地がそれぞれに割り振りされた。度重なる幕府からの手伝普請、萩築城などにより藩財政は逼迫し、萩藩は、藩財政を建て直すために積極的に山開作(新田開田)、海開作(塩田、干拓地)の奨励を図った。

 萩藩の治水利水事業について二、三追ってみたい。
 鹿野市(都濃郡鹿野町)は鹿野四ケ村の中心的な位置に設けられた市である。市日は毎月3のつく日で、3日、13日、23日のいわゆる「三斎市」で、商品は津和野、徳山領をはじめ、農作業に欠かせない牛馬、農具類、そして日用雑貨まで幅広く取り扱われ、市日は交易でにぎわっていた。

 しかし、台地状の鹿野市の弱点は、鹿野平野を流れる錦川支流田原川は川床が低く、この川からの水利用が大変不便な所に位置していたことである。
 このため、漢陽寺の裏山を掘削し、裏山の向こうを流れる錦川支流渋川の水を鹿野台地へ供給を図ったのが鹿野村の農民岩崎想左衛門重友であった。
 慶安4年(1651)に萩藩に願い出て、承応3年(1654)に完成し、のちにこのトンネルは「潮音洞」と名付けられた。

 洞内の掘削部分は延長89.4メートルであって、現在渋川の水を引く導水路部分 870メートル、下流水路1000メートルに改良されている。
 想左衛門の潮音洞は、下流水路の完成によって、漢養寺開作、三井開作、湯浅開作、岩崎開作など新田開発が進み、21,7haの地に不毛の台地から豊かな田畑に変わった。
 いままで、田原川に近接していた古市の住民たちは「潮音洞」の完成に伴って、鹿野原に移り住み、鹿野新市が繁栄してきた。古市はさびれ、その跡地には開作されて田畑になった。

 想左衛門の功績を称え、永遠に記録をとどめておこうと「潮音洞」上部に石碑が建立され、一方鹿野町に想左衛門の銅像が建っている。
【新堀川、藍場川の開削】
 萩城下は山口県の第2の大河阿武川の支流橋本川と松本川の2つの分流する三角州上に築城された。萩には河添、江向、川島など水に因んだ地名が多い。

 貞享4年(1687)三代藩主毛利吉就は新堀川の開削を幕府に願い出た。この新堀川は萩城下を東西に横断するもので、萩城外堀から橋本川と松本川を結び、城下の河川交通におけるバイパスの役割を担い、また、商業流通やかんがい用水のための水路として機能した。

 18世紀の中ごろ六代藩主毛利宗広によって藍場川が開削された。阿武川が橋本川と松本川に分かれる大鼓湾の近くに川島樋の口(現在、使われていない)が設けられ、この取水口から川島、橋本町、江向、平安古の4地区約 2.6キロにわたって流れ、平安古の石屋町で新堀川に合流する。
 この藍場川の開削によって、上流阿武郡川上村から薪や炭が川舟で運搬された。一方かんがい用水や防火用水に役立った。

 延享元年(1744)藍場川筋に藩営による製蝋板場が設置され、藍場川の水を利用した水車が蝋の原料となる櫨実をつき蝋の生産が行われた。
 さらに明和年間(1764〜71)藍場川に藍玉座を設置し、藍色の染料となる藍玉の生産を行っている。当然、これらの原料や製品は藍場川を利用して運ばれた。
【姥倉運河の開削】
 前述のように萩城下は橋本川と松本川に囲まれた三角州に造られており、度々水害を被った。萩城下の防災体制は、洪水が起こると、鐘を打ち鳴らし、リレー式で各町へ伝達し、この合図を受けて町ごとに町昇(町印を描いた幟や提灯)、空俵、縄、鍬、鎌などを持って出動し、堤防の決壊や橋の流失を防ぐために警戒にあたった。

 江戸後期、天保7年(1836)6月12日、嘉永3年(1850)6月1日、萩城下は大洪水に見舞われた大災害となった。帰国中であった13代藩主毛利敬親は水の恐ろしさを身を持って体験している。

 このため敬親は、
・松本川の川幅を広げる
・松本川下流の千本松に運河を堀り、洪水時の水を小畑方面へ流す
・松本川の川幅を広げる
・松本川沿いの桜江、玉江に入江をつくり、洪水時の溢水を貯へる
・萩城外堀の浜手部分を広く切り、洪水時の水を菊ケ浜へ流す

 以上の方策により、嘉永5年(1852)姥倉運河の開削に着工し、2年半の歳月を経て、安政2年(1855)6月に完成した。全長 419間(約 836メートル)、幅15間(約30メートル)の姥倉運河の開削により、洪水の水を小畑方面へ流出させ、萩城下の水害が減災した。この運河は、水害を防ぐとともに人や物資の運搬に利用され萩城下の舟運にも大いに役立った。このように萩市内は松本川、橋本川に囲まれ、そのなかを新堀川、藍場川、姥倉運河が流れ、それぞれに水辺空間、親水空間を創り出している。

 以上、萩藩の治水、利水事業については、農山漁村文化協会企画・発行『人づくり風土記 35 山口』(平成8年)に拠った。

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