多目的ダム理論の先駆者
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今日の多目的ダム建設を理論と技術開発(実践)の両面から考えるとき、戦前の水理学者物部長穂(もののべながほ)(1888―1941)の先駆者としての天才性を忘れるわけにはいかない。
氏は秋田県仙北郡協和町の由緒ある唐松神社の神職の家に生れた。秋田中学、第二高校(仙台)(いずれも旧制)を最優秀の成績で卒業し、明治44年(1911)東京帝大工科大学土木工学科を首席で卒業した。内務省に入省し、同時に東京帝大理科大学で理論物理学を聴講した。土木技術者でありながら理論物理学も学んだ氏は、物象の本質を理論的にもとらえる精神の研鑽に努めた。 昭和2年(1926)、東京帝大教授、地震研究所研究員、内務省土木試験所(現土木研究所)所長を兼務した。一人三役である。38歳の若さであった。河川工学や耐震構造学などの学問で未踏のジャンルでの研究開発を続けた。昭和16年9月9日逝去。享年53歳。早過ぎる死であった。
氏の学者・研究者・技術官僚としての功績は多岐にわたる。耐震構造学、水理学、多目的ダム理論に超人的業績を残した。(『国土を創った土木技術者たち』(鹿島出版会)松本徳久「物部長穂」を参考にし一部引用する)。
@大正9年(1920)耐震構造で、第一回土木学会賞を受け同時に学位を取得した。氏はその後、構造物の震動理論を組立て、地盤の震動時の動きを関東大震災(大正12年)の被害調査などから推論して、地盤振動に対する構造物の反応を解明した。「地震大国」日本にあって、地震に強い構造物の設計法をいち早く説いた。今日の重力ダムの設計理論はほとんどここに網羅されていると言っていい。平成7年(1995)の阪神淡路大震災で、ビルや高速道路などの巨大構造物が大きな被害を受けたのに対し、ダムへの被害がなかった事実が雄弁にこの事実を語っている。『応用地耐震学』3冊がある。
A水理学では、日本で初めてこの技術理論を体系付けた『水理学』は、当時の先進国のあらゆる文献を通読し、不足部分を自ら補足し、土木試験所での昼夜を分かたぬ水理実験の成果を踏まえて体系化された画期的出版である。ちなみに英語のHydraulicsを「水理学」と訳したのも物部である。
B氏は大正14年、土木学会誌に「貯水用重力堰堤(ルビえんてい)の特性並びに其(ルビそ)の合理的設計方法」との論文を発表した。論文は諸外国の貯水事業の発達を概観し、同時に重力ダムの地震を含む設計法を提示している。同論文では、重力ダムの地震に対する新たな設計法を提案して、設計実例の試算を例示している。この中で、河川貯水事業について、夏場は洪水に対して一定量の貯水池を空けておき、冬場はこの部分にも貯水可能であるとし、今日の多目的ダム出現を理論的に示した。(氏ほど空理空論を嫌った土木技師も珍しい)。
氏は、水源から河口に至るまで、全川にわたって砂防、治水、利水、場合によっては舟運などを一括して考えるべきであると指摘した。
大正15年の論文「わが国に於ける河川水量の調節並びに貯水事業について」では、日本の河川の特徴から、貯水による河川水量の調節が有利であること、貯水容積を夏と冬で使い分けることにより発電も含め多目的に利用できること、つまり水系を有機的に運用することができること、貯水池埋没対策として砂防工事が必要であること、耐震設計により安全なダムが建設できること、などを改めて提言した。前例のない巨視的な発想であり「水系一貫の河川管理計画」「多目的ダム理論」として、現代のダム理論の根幹となっている。天才級の河川学者たるゆえんである。
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