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戦時体制と河水統制事業

 政府は「物部提言」を受けて河水統制事業に乗り出す。戦時体制下の河川政策である。
『内務省史』の「河川の総合的利用開発」から一部引用する。

 日本は第一次世界大戦後、鉱工業が発展して先進工業国への歩みを示し、電力開発をはじめ各用水の開発・確保が緊急課題となった。一方で治水事業も拡大の一途をたどった。治水対策は単一の連続堤方式をとったことにより、洪水氾濫による災害を軽減することはできた。だが河床の低下により、下流における農業用水の取入れは次第に困難となった。同時に慣行水利権の不明確さのため、渇水期には絶えず地域間の紛争を起してきた。これらの紛争は、消極的な法律である旧来の河川法だけでは、満足な法的解釈が困難であった。
 逓信省(ていしんしょう、旧郵政省前身)では発電水力法を、また農林省では農業水利法を制定することを企画したが、これは河川行政を多元化するものであるとして、内務省は絶対反対の態度を堅持して同意を与えなかった。

 内務省では、昭和10年(1935)10月、土木会議(議長青山士(あおやまあきら)、1878−1963)の河川部会で、「水害防備対策の確立に関する件」の一項目として、「河水統制の調査並びに施行」について決議した。「河川の上流に洪水を貯留し、水害を軽減するとともに、河水利用を増進する方策を講ずることは、治水政策上は言うまでもなく、国策上最も有効適切なので速やかにこれが調査に着手し、河川統制の実現を期すること」としている。

 土木会議の決議により、「物部提言」を最優先する河川統制事業は、国策として正式に取上げられたのである。
「河水は、洪水の際には、従来は無為に海洋に放流されていたものであるが、もしこれを上流において貯留して、洪水量を調整し、水量の防止軽減を図るとともに、適時下流の必要水の需要に応じることが出来れば、実に一石二鳥の効果があるわけである。即ち、旧来の治水策に対する反省と水資源確保の必要とが、河水統制の必要を認めるに至った根本原因であった」(『内務省史』)。
 政府が、アメリカのTVA(テネシー河流域開発公社)の壮大な河川流域総合開発計画からも影響を受けたことを付言しておく。

 河水統制政策の主な初期事業を列記する。
@諏訪湖(長野県):洪水調節水力発電、かんがい用水確保、
A江戸川(東京都):かんがい用水確保、上水確保、工業用水確保、
B相模川(神奈川県):水力発電、上水確保、工業用水確保、
C玉川(秋田県):水力発電、かんがい用水確保、
D小丸川(宮崎県):洪水調節、水力発電、
E錦川(山口県):水力発電、上水確保、工業用水確保、
F浅瀬石川(青森県):洪水調節、水力発電、かんがい用水確保、
G奥入瀬川(青森県):洪水調節、水力発電、かんがい用水確保。

 河水統制事業は、太平洋戦争の戦火拡大とともに中断・中止に追い込まれた。敗戦後、大水害が相次ぐ中で、早期に復活の態勢を整える。


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