1.愛媛県のすがた
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松山藩の新田開発
伊予の国は、寛文10(1670)年松山藩を含む8藩が成立し、以後幕末まで続き、その藩力は米の生産力が支えていた。正岡子規は「春や昔十五万石の城下哉」と詠んだが、加藤嘉明が統治した松山藩は20万石といわれている。家老足立重信は、普請奉行として、松前城から仕え、松前城の南を流れる伊予川( 重信川)を下流12km北側へ付替えた。さらに、松山城を築く際、勝山を流れる石手川を岩堰地点で南に変え、南西方向に8km開削し、重信川の出会い地点で合流させた。この2つの河川改修によって灌漑の便を来し、道後平野300町の新田が開発された。この河川改修は、今日の愛媛県の礎となり、その繁栄をもたらす一要因となったといえる。
愛媛の地勢・人口・気象
愛媛県は、四国の北西部に位置し、高知県境に石鎚山(標高1982m)がほぼ東西に走る険しい四国山地が海岸線近くまで迫っている。北は瀬戸内海の燧灘、伊予灘を、西は豊後水道の宇和海を臨み、細長い陸地と瀬戸内海に点在する大小 200余の島々からなる。
四国山地からは、銅山川、重信川、肱川等の大小の河川が流れ出し宇摩平野、道前・道後平野、大洲盆地を形成し、山間には、久万、内山、宇和盆地が開けている。都市をみてみると、燧灘の臨海部に、四国中央市、新居浜市、西条市、今治市、伊予灘に松山市、伊予市、長浜町、さらに南の宇和海岸に八幡浜市、西予市、宇和島市などが発展している。
愛媛県は人口 146.7万人(平成18年1月現在)、人口密度 259人/km2、総面積5677km2で、土地利用状況は、林地70.4%、農用地10.3%、宅地 4.1%、道路 3.3%、河川等2%、その他 9.9%である。
愛媛県の地質は、北から領家帯、三波川変成帯、秩父帯及び四万十帯に大別され、それぞれの境界は、ほぼ東西に走る中央構造線、御荷鉾構造線、仏像構造線と呼ばれる構造線に区切られ、風化を受けやすく、剥離に富む脆弱な地質であり、地滑り性崩壊の要因となっている。また、気象は、複雑な地形の影響を受け、変化に富んでいる。瀬戸内海地域は降水量が少なく、年降水量1200mm〜1600mm、比較的温暖で年平均気温15〜16℃、西部、宇和海沿岸は降水量は多く1600mm〜1900mm、気温もやや高く15〜16℃、内陸山地では降水量はさらに多く1900mm〜2000mm、気温は低い12〜14℃である。
東予、中予、南予の地域
愛媛県は東から西南にかけて東予、中予、南予の3つの地域に区分される。
・東予地域は、香川、徳島両県境から高縄半島にかけての地域と瀬戸内海の芸予諸島の島々を含む一帯である。この地域は工業がもっとも発達した。銅山川の水利用によるパルプ、製紙業の栄んな四国中央市、製銅、化学、機械業の新居浜市、化学繊維工業の西条市、高縄半島の北部今治市はタオル・綿布工業で知られる。また加茂川、中山川の扇状地、新居浜平野は古くから水田が開け、干拓も行われてきた。一方、芸予諸島の島々は漁業、農業が中心であり、山の頂上近くまでミカン畑が耕作されている。なお、平成11年、今治〜尾道間の瀬戸内しまなみ海道が開通し、交通の利便性を発揮している。
・中予地域は松山市を中心に東温市、伊予市、内子町などを含む一帯である。松山市は道後温泉など観光都市と知られるが、戦後は、臨海部の埋立地、海軍航空基地跡地に、化学・石油精製、ソーダ工業が進出し、工業都市に変化した。松山平野は面河ダムから水が引かれ都市向けの野菜、養鶏などの近郊農業地帯となった。一方、仁淀川上流域の山地は杉を中心とした林業が行われているが、山林収入が増加せず、人口の減少が進んだ。
・南予地域は、八幡浜市、宇和島市、愛南町一帯を含む肱川流域、四万十川上流と、宇和島に面した地域である。肱川流域の大洲盆地て採れる野菜は松山市へ出荷され、野村盆地では酪農が盛んである。一方、宇和島沿岸は、「耕して天に至る」という言葉のとおり、標高 400m近くまでの急斜面に石垣が10段〜 100段の段々畑が江戸時代から築かれてきた。現在、この段々畑はミカン畑となり、わが国では有数なミカンの産地となっているが、これはミカンの栽培に適した地形、地質であることと、沿岸部の栽培適温が平均15〜17℃に恵まれているからである。また、宇和海沿岸はイワシ網、底引網漁業が盛んであったが、近年、真珠、ハマチなど育てる漁業に変わってきた。
愛媛県のシンボルは、県の花みかんの花、県獣ニホンカワウソ、県の鳥こまどり、県の木まつ、県の魚マダイが各々制定され、県の旗にみかんの花が図案化されている。
以上、愛媛のすがたについては、『統計でみる愛媛のすがた '06』(愛媛県統計協会・平成18年)、『えひめの河川』(愛媛県土木部河川課・平成15年)、『日本の地理・中国・四国地方』(旺文社・平成2年)に拠った。
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