[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]


1.高知県土木事業の祖−野中兼山

 平成18年NHK大河ドラマは、「巧名が辻」が放映されている。土佐藩主山内一豊と千代の出世物語は人気を博しているが、土佐24万石の礎を築いた野中兼山のことも忘れてはならないだろう。

 早明浦ダムから吉野川沿いに3キロ程下った帰全山公園(高知県本山町)に野中兼山像がある。二本差しに、左手に地図を持ちながら工事の陣頭指揮をとっている姿は吉野川を見下ろしているかのようである。


野中兼山の墓
 兼山は元和元年(1615)〜寛文3年(1663)の江戸前期の政治家、儒学者。土佐藩家老として二代藩主山内忠義に仕え、藩財政確立のために治水や港湾改修、殖産興業に努めた。
 次のような兼山の業績を挙げることができる。

・吉野川流域での宮古野溝、下津野溝、行川溝の開削。

・物部川流域では灌漑用水として父養寺井、山田上井、山田中井、野市上井、また舟運として舟入川、大津川の開削。山田堰は寛永16年(1639)に着工、その完成は兼山没後であり、25年の歳月を要した。山田堰は弯曲斜め堰であったが、昭和48年に上流 800mの地点に合口堰に改築され、昭和57年一部を残して撤去された。山田堰記録保存調査委員会編『山田堰−物部川水利史』(土佐山田町・S59)が刊行されている。

・仁淀川流域では八田堰、鎌田堰、四万十川流域では後川のカイロク堰、麻生堰、松田川流域では河戸堰の築造。

・築港として津呂港、室津港の開鑿、柏島港の突堤、浦戸港の波止を行い、漁民の保護、
海運の安全を図った。

・産業奨励として養蜂業、陶器工業を興し、捕鯨組織、苗木配付の山林制度を制定した。


野中兼山功績碑

 しかしながら、この兼山の施策は藩内から独裁的だと反感を買い、失脚、蟄居させられ49歳で急死した。その兼山一族は宿毛へ幽閉された。兼山の功績があまりにも秀抜していたためか、江戸幕府は兼山を恐れ、その失脚には幕府がなんらかのかたちで関与していたものと考えられる。
 大原富枝の小説『婉という女』(講談社・S46)では、「今日、安東家からお使者が見え、藩府からの赦免状を受けた。お使者の帰ったあと、母上を中に、乳母、姉上、妹と相擁して泣いた。」と始まる。兼山の遺族達が宿毛に幽閉され、野中家の男達が途絶えると赦免される描写である。婉は兼山の娘である。

 平成18年10月5日、私は婉が建立した高知市筆山トンネルの真上にある野中兼山のお墓に参った。小雨が降っており、墓の周囲は草で覆われていた。この墓を少し下ったところに兼山公園があり、建設省高知工事事務所所長池田茂による「高知県土木事業の祖−野中兼山」の碑が建っている。まさしく兼山は土佐藩におけるインフラ整備の事業の立役者であった。なお、兼山は上杉鷹山・熊沢蕃山と並び天下の三山と称えられている。


[次ページ] [目次に戻る]
[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]