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1.環境公共の理念

 三村申吾青森県知事は、「私の視点 いま自治体で」(朝日新聞 平成18年11月24日付)のなかで、公共事業における持続可能な国土づくりの社会資本整備の在り方について、「環境公共の理念を持とう」と、次のように提唱されている。

『水田風景に代表される田園空間や里地・里山は、農林水産活動を通じた自然への持続的な働きかけによって形成された人為的、二次的自然であり、人間活動と自然との絶妙のバランスの上に成り立っている。
 しかし、地方の生産現場では過疎化・高齢化が急激に進行しており、その維持管理の力が極端に弱まっている。こうした空間を、公共の社会資本として次世代に継承していく取り組みが今求められているのではないか。
 青森県では私自らが「環境公共」という概念を創造・提唱し、その言葉によって、環境とそれを支える農林水産事業を一体としてとらえる公共投資の重要性を強くアピールしている。
 食料生産の大本は清純な水であり、「山・川・海をつなぐ水循環システム」を健全な状態で整え、守ることこそが基本中の基本である。県ではその水循環システムを、行政が計画を策定して予算付けをし、コンサルタントが設計を行い、建設会社がその設計に基づき建設工事を受け持つという従来型の公共事業ではなく、協業・総合型の「新しい公共事業」のスタイルで実現していきたいと考えている。(略)
 ある意味で江戸時代まで行われていた「皆に必要なものを皆でつくる」という「公共事業」の原型に通ずる手法である。もちろん、機械力と専門力を活用した「狭義の公共事業」も必要ではあるが、地域力を総動員するこうした「環境公共」推進の手法は、持続可能な国土づくりのための社会資本整備の在り方として有効な考え方ではないだろうか。』

 国土は、常に自然的にも、人工的にも創り変えられているが、三村知事は山・川・海をつなぐ水循環システムの風景を環境公共として捉え、公共事業はこれを損なうことなく水循環システムを基本としながら施行すべきだと主張する。 さらに、江戸時代で行われていたように、皆に必要なものを創る公共事業でなければならない、という。

2.新渡戸 傳の三本木原開拓

 青森県では、江戸時代、皆に必要な公共事業を考えるとき、まっさきに新渡戸 傳(寛政5年〜明治4年)が行った三本木原開拓を挙げることができよう。

 三本木原台地は標高15〜90mで、十和田市を中心に東西40km、南北32kmの広さを持ち、十和田火山の噴火によって形成された噴出火山岩第三紀層火山灰洪積地帯である。土壌の粒子が細かく、雨水の地下浸透が早いため樹木の生長に適さず、ただ広陵な原野にすぎなかった。また、周辺の川が低地を流れ、水利はきわめて不便であった。そこで傳は、安政2年十和田湖に発する奥入瀬川から取水し、三本木原へ引水し、太平洋に注ぐ新しい川(稲生川)の掘削を計画した。

 奥入瀬川と台地では最高30mの高低があるため途中鞍手山穴堰2540m、天狗山穴堰1620m、陸堰7200mを造ることとした。穴堰はトンネルのことで、陸堰は水路の高さを保つために、盛土をして用水路を通した。用水路のために10m以上も盛土をしなければならなかった、という。

 鞍手山穴堰と陸堰の完成後、傳は南部蕃の命令で勘定奉行(江戸)に着任したため、傳の長男十次郎は安政5年、天狗山穴堰を完成させ、三本木原開拓を行った。さらに、復帰した傳と十次郎は開田に加えて、京都にならって三本木原を碁盤の目のような道路をつくり、町づくりに着手した。新しい町にふさわしいように奥州街道沿いに2階建ての家や、旅館をおき、八甲田山から太平洋に吹きつけるやませの対策として、かぎの手型をした独特の防風林を植えている。。また、駄馬市の開催、養蚕業、瀬戸物の起業などの殖産に力を注いだ。明治4年傳は三本木原で79歳の生涯を閉じた。(「水土を拓いた人びと」編集委員会・農業土木学会編『水土を拓いた人びと』(農文協・平成11年))

 なお、平成18年2月農林水産省は、主に農業用に造られたその地域共同体で守られてきた水路を、次世代に継承するために、全国の「疏水百選」を選定した。青森県では稲生川用水、土淵堰、岩木川右岸用水が選ばれている。


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