1.最上川のうた
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かつて、河川は道路であった。最上川の舟運は流域の産物である米、大豆、紅花、煙草などを積み、酒田港より大阪、京都、江戸へと運ばれた。一方帰り船には塩、茶、古着、ひな人形、仏像が運ばれ、人的な文化交流もなされた。
これらの産物を運ぶ中継基地の糖ノ目、宮、荒砥、長崎、寺津、谷地、境ノ目、横山、大石田、本合海等などの河岸は明治時代まで繁栄した。
元禄2年(1689)、俳人松尾芭蕉は曽良を伴って奥の細道に旅立った。この奥の細道の全行程の4分の1が山形であった。最上川を詠んだ〈五月雨をあつめて早し最上川〉、〈暑き日を海にいれたり最上川〉は、余りにも有名である。
明治26年(1893)、正岡子規は、芭蕉に少しの反発をもって〈ずんずんと夏を流すや最上川〉と詠み、また、高浜虚子は〈夏山の襟を正して最上川〉と詠む。
最上川が最初に歌われたのは〈最上川上れば下る稲舟のいなにはあらずこの月ばかり〉(詠み人知らず)で、「古今和歌集」のなかにでてくる。〈もがみ川あふせぞしらぬいな舟のさすがいなとはいひもはなたで〉(本居宣長)、〈強く引く綱手と見せよ最上川その稲舟の碇おさめて〉(西行)の秀歌もみられる。
上山市出身の斉藤茂吉は東京青山の自宅を空襲で全焼、さらに好戦的な歌を詠んだとして世の非難を受け、失意のどん底にあった。大石田町へ戦後の一時期移り住み、最上川の辺りで過ごした。
〈此の岸も彼の岸も共に白くなり最上の川はおのづからなる〉 〈最上川の上空にして残れるはいまだうつくしき虹の断片〉 〈はるかなる源をもつ最上川波たかぶりていま海に入る〉
茂吉は最上川の流れを凝視し、やがて精神的な安定を取り戻し、創作意欲も蘇った。前掲歌は『白き山』の歌集にに収録されている。
大石田町は、最上川舟運の中核として、寛政4年(1972)に徳川幕府によって舟役所が置かれた地である。
私は平成19年3月1日大石田町を訪れた。最上川の豊かな流れに沿い、大石田河岸跡である特殊堤修景には心がときめいた。さらに茂吉が住んだ聴禽書屋、大石田町立歴史民俗博物館に足を運んだ。館内に展示されていた高嶋祥光画伯の油絵「川畔の夕」に釘付けとなった。茂吉がカンカン帽をかぶり、茂吉を大石田時代に支えた板垣家子夫の二人が、最上川をしずかに眺めている絵であったからである。また乗船寺の茂吉の墓と歌碑には雪が残っていた。乗船寺という名は、まさしく舟運の町大石田にふさわしい名寺である。
昭和57年3月31日、山形県は、昭和天皇の御製最上川〈広き野を ながれゆけども 最上川 うみに入るまで にごらざりけり〉を山形県民の歌として告示。このようにうたが生まれてくる最上川は山形県民の誇りでもある。
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