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◇ 1. 加藤清正の治水・利水事業

 日本人は、縄文時代後期から今日まで米作りに勤しんできた水田稲作農耕民族である。米の増産には水田の開発は欠かせない。その水田開発には、水利施設の充実が重要な位置を占めているが、それには先ず治水を図ることが必要であった。江戸時代において、河川との共生を行った武将の一人に、肥後国54万石領主加藤清正がいる。

 清正は、慶長12年(1607)熊本城を築き、その城や町を守るために、白川を付替え、水門、堰を造り、土砂の流入を防ぐために白川と坪井川を分離させ、洪水を減災させ、また坪井川と井芹川は城を防禦する堀の役割をもたせ、舟運にも役立つように改修した。城内には120基程の井戸を掘り、食用のための銀杏の木を植えた。

 清正の白川での治水・利水技術は、堰を造り、その堰からの灌漑用水路には、「鼻ぐり」という工法を用い、水勢で土砂が用水路に溜まらないように工夫されている。白川の下流に石塘、石塘堰、二本木堰を築き、水量調節や水田保護を図っている。

 菊池川では、河口玉名の干拓、横島小島石塘、唐人川改修、くつわ塘8ヶ所、船着場8ヶ所の工事を行った。


 さらに緑川では、鵜の瀬堰の設置、御船川の付替え、六門わんど(流土の沈降池)設置、杉島どんと(石造りの直線水路)、たんたん落し(乗越堤)、清正堤を築いた。球磨川では、遥拝堰を設置した。清正は、これらの工事従事者には男女の区別なく、米や給金を支払い、労働時間は厳守させたという。



 平成19年、熊本城は築城400年を迎えた。清正はいまでも熊本県民から「清正公さん」と呼ばれ親しまれている。それは、このように白川、菊池川、緑川、球磨川における治水・利水事業を図り、今日の熊本の繁栄を築きあげたからであろう。


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