2009年11月4日。土木技術者・八田與一(はったよいち)が、77年の時空を超えて、台湾に帰ってきた! 北京語と台湾語を交えた台湾吹き替え版アニメ映画「パッテンライ!」の特別試写会が、台南県文化会館で催されたときのことです。千人収容のホールは瞬く間に埋め尽くされ、政府や農田水利会関係者のみならず八田技師が創立した嘉南國小学校児童や地域の中・高生の姿もあります。そして、台南県知事、八田技師の長男夫人・綾子さんらの挨拶の後、馬英九総統が祝辞の中で、「八田技師による台湾の農業土木事業に対する業績は、誰もが認める普遍的なもの」と述べ、烏山頭宿舎を復元して公園化すると公言したのです。
台湾の南部、台南県にある烏山頭(うさんとう)ダム建設工事のために造られた烏山頭村。時を半世紀少し遡って俯瞰してみましょう。
当時、烏山頭堰堤工事には日本から多くの技術者が招集されました。しかし、何しろ海を隔てた台湾での現場です。家族が離ればなれになっていては、いい仕事ができない。そう言って八田技師は、烏山頭に家族と共に住める宿舎をつくります。八田にとって「安心して働ける環境づくり」もまた困難な工事を立派に完成させるために必要なものだったのでしょう。日本家屋による宿舎だけでなく、学校、病院、弓道場やテニスコートなどを建設して、砂塵すら舞っていた烏山頭の荒れ地にやおら小さな集落が出現していきました。
「トーフいらんかあ?」。家々の軒下を豆腐売りや魚屋が天秤棒を担いで回り、チャラボンと呼ばれた台湾の洗濯女が頭に荷物を乗せて各戸を訪ねます。小学校のチャイムからは「夕やけ小やけ」が流れ、学校帰りの子どもたちが医務室近くの売店で菓子や雑貨に群がっています。運動会では八田技師が父兄に酒を注いで回ることもありました。ある時は、テニスコートを舞台にして、内地から相撲、歌舞伎、芝居、手品などの興業が呼ばれました。月一回の映画会もここで行われました。仮装大会では八田技師も七福神に扮して楽しんだようです。人里離れた工事宿舎というより、ちょっとしたニュータウンのイメージすら浮かんできます。このように、教育や娯楽、福利厚生を整えて、最高の土木事業を支える環境を整えていった烏山頭集落ですが、今では朽ちた数棟の日本家屋が往時を僅かに偲ばせるだけとなっていました。
実は、先述した台南試写会の数時間前、私と八田綾子さんはその廃屋前に佇んでいました。その草木に覆われた廃屋こそ、烏山頭出張所長の娘として少女時代を過ごした綾子さんの家だったのです。「ああ、あの時の樹がこんなに大きくなって・・」畳も落ちた家屋の中から、ひょいと裏庭に出た綾子さんの眼(まなこ)には、南島の小宇宙で遊んだ少女の想い出がにじみ出ていて・・。「それで綾子さん、台所の間取りのことだけど」。綾子さんの夢想を現実に引き戻す声でそう話しかけたのは、宿舎復元の設計担当を任されることになった郭中端女史。台湾・宜蘭市の冬山河公園などで知られる気鋭の建築家で、「宿舎の復元を忠実に図りながら、水をテーマとした全体公園を考えている」と話す郭さんの眼もまた小宇宙を映していて・・。
烏山頭宿舎復元の祈願祭(台南県官田郷) 烏山頭宿舎付近で催された「八田技師記念公園」祈願祭には、日本から大工さんも招かれました。 烏山頭宿舎を中心とした復元整備を受けて、八田技師の郷里・金沢も慌ただしくなりました。「?パッテンライ≠フ家に家具を贈ろうキャンペーン」実行委員長として石川県民に呼びかけ、戦前の古い家具や調度品を募っているのは中川外司(とし)さん。昭和六〇年から八田技師の墓前祭に参列して、「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」活動によって日本と台湾の草の根交流を続けておられます。
今回のアニメ映画「パッテンライ!」の製作と上映は、こうした金沢の人たちによる地道な活動と熱意が後押ししてくれた賜物でもあるのですが、映画を契機として「烏山頭ダムを世界遺産登録に」という運動まで台湾から起こさせている波動は、取りも直さず、八田技師による烏山頭ダム建設と嘉南平原に水を引いた水利事業が、民衆の幸せづくりための土木であった証左であろうと思います。
「パッテンライ!」台北市試写会に駆けつけた李登輝氏とジュディ・オングさん 「パッテンライ!」台南試写会の五日後、台北市での上映式典に駆けつけた李登輝氏は、「若い人にこそ見てほしい映画」と感想を述べ、世界遺産登録にも賛同の署名を連ねて会場を後にしました。
ちょうど台湾各地で映画上映が行われていた11月21日、土木学会の吉越洋理事から「選奨土木遺産」認定証書と銘板を受けた嘉南農田水利会の徐金錫会長もまた、「私たちは八田技師の仕事ぶりと精神から多くのことを学びました」と感謝すると共に、世界遺産登録運動の励みになると喜びました。さて、その前途はともかくも、一人の土木技術者が民衆に尽くした普遍的な価値を感謝の心で見直している台湾の人たちは、日本で「コンクリートから人へ」などと標榜されている土木への偏見をどう思っているのでしょうか。
(財)全国建設研修センター広報室長 緒方英樹 これは、(社)日本土木工業協会「CE 建設業界」2010年4月号からの転載です。
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