御母衣(みぼろ)ダムは、昭和36(1961)年1月、電源開発鰍ノよって、庄川の上流に完成した。岐阜県大野郡白川村平瀬に位置する。その御母衣ダムについて、このたび、浜本篤史編著『御母衣ダムと荘白川地方の50年』(まつお出版・2011年)が発刊された。この書は、昭和36年ダム完成後から50年を振り返って、荘川村と白川村の地域と人々の変遷に係る社会的ストリーである。
ダムの諸元は、堤高131m、堤頂長405m、堤体積795万m3、総貯水容量3億7000万m3、発電最大出力21万5000kw、型式はロックフィルダムである。水没移転者は荘川村245世帯1156人、白川村56世帯208人で、あわせて移転301世帯1346人となっている。
ダムの計画は、昭和電力、日本発送電が実地計画を行い、その後関西電力がボーリング調査を開始したが、昭和27年関西電力から電源開発へ移った。ダムサイト予定地は破砕帯の断層があったため、海外からのダム技術者、地質学者ニッケルらを招聘して、当初予定していたコンクリートダムではなく、ロックフィルダムに変更。水没者301世帯にのぼるため、ダム建設反対闘争が起こり、「御母衣ダム絶対反対期成同盟会死守会」が174戸によって、結成された。死守会の主な活動は「ダムは庄川本流でなく支流に造る」という代替案を主張し、7年半の反対運動が続いた。絶対反対を貫いていた死守会は、昭和31年5月8日、電発との間で「幸福の覚書」を締結し、条件闘争に変わり、そして補償交渉が妥結した。301世帯の移転先は、岐阜市67、高山市48、名古屋市31、白鳥町30、関市24、八幡町19等である。
その後の村の状況は、人口と農地の減少を生じ、標高1200mダナ地区に農地開拓、今では村の特産物蕎麦が栽培されている。林業が盛んであったが、輸入材の自由化で衰退した。そのあとゴルフ場・スキー場・別荘地開発の時代となってくる。昭和55年以降、過疎化が進む。東海北陸自動車道の開通によって、都市との交流の時代に移っている。白川村では、平成7年に白川郷・五箇山の合掌造りが世界遺産に登録されたことからも一層観光に力をいれているが、一方、荘川村は平成17年の平成大合併により、高山市に編入され、その村名は消えてしまった。
以上、この書は、御母衣ダム完成後の50年を機会に水没地であった白川村と荘川村の変遷をコンパクトに記録している。著編者の浜本篤史は、名古屋市立大学院人間文化研究科の准教授である。
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