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《台湾総督府土木技師・八田與一》

 いまでも、台湾の人々から最も敬愛されている日本人がいる。台湾総督府土木技師であった八田與一である。

 八田與一は、明治19年2月21日石川県河北郡今町村(現、金沢市今町)で生まれた。四高を経て、明治42年東京帝大工学部土木学科在学中に広井勇教授の薫陶を受ける。卒業後台湾総督府土木局に勤め、大正3年浜野弥四郎のもとで衛生工事に従事、大正5年桃園の設計・監督を行う。大正9年嘉南平野に導水するための烏山頭水庫(水庫=ダム)の建設が着工し、昭和5年このダムから導水する嘉南大しゅう(大しゅう〔たいしゅう〕=大規模な用水路、しゅうは、土へんに川)事業が竣工した。この事業の中心的役割を果たした八田與一は、「嘉南大しゅうの父」として慕われ、尊敬されている。 昭和17年5月8日、フィリピンへ、南方産業開発派遣隊の一員として太洋丸に乗船中、東シナ海上において、米潜水艦グラナディア号に撃沈され、殉職。56歳であった。昭和20年9月1日、妻外代樹は與一を追うかのように、烏山頭ダム(珊瑚潭)の放水路に投身自殺、45歳の生涯を閉じる。昭和21年4月八田家の遺族は、悲しみを抱き台湾を去った。

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 烏山頭ダムを見下ろすところに八田與一の銅像が、嘉南農田水利協会によって建立されており、八田夫妻の墓もそのそばにあり静かに眠っている。

 この墓を訪れたときのことを、司馬遼太郎著『台湾紀行−街道をゆく(40)』(朝日新聞社・平成6年)では、「珊瑚潭の八田與一とその妻外代樹の墓は疎林でかこまれて、木漏れ日が赤土の上に落ちている。木陰が印象派の風景画のように紫に光っているのである。與一の命日は五月八日である。毎年この日には嘉南農田水利会のひとびとによって、墓前祭がいとなまれているという。ありがたいことに、故人は国籍、民族を越えた存在になっている」と、讃えている。

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 台湾は「木の葉」の形をした島である。面積は36,000km2、日本の九州とほぼ同じで、 2,237万の人たちが暮らしている。総面積の約70% が山地で、残りの30% が平地で占め、南北に中央山脈が走り、最高峰 3,952mの玉山(新高山)をはじめ 2,600m以上の山々が連なっている。気候は高温多湿で雨が多く、風が強い。北部は亜熱帯気候、南部は熱帯気候で平均気温は22℃、平均年降水量は 2,2OOmmで比較的多い。

 台湾の河川は、ほとんど山岳地帯の水源から西へ流れており、山間部から海までの距離が 100kmに満たない。川は短く、険しく、直ぐに海へ流れ込み、商業的な舟運は発達しなかった。台湾では谷川のことを渓と表現されている。
 河川は、中部を流れる全長 186.4kmの濁水渓が一番長く、さらに南方の東港の町へ向かって流れる全長 160kmの高屏渓、台湾最大のダム曽文水庫を経て台湾海峡に下る全長 140kmの曽文渓が流れている。この3つが台湾の代表的な河川といえる。


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