|
この水開発のために、水源を曽文渓及び濁 水渓から求めた。まず、曽文渓の水を官田渓で締切り、堰堤の烏山頭ダム(官田渓貯水池)を築き、このダムには烏山嶺を貫き延長 3,800mの隧道と暗渠を通して、最大流量50m3/sを導水し、貯留する。また、濁水渓の水は、台南州六郡荊桐生の同渓護岸に取水口を設け水路によって、そのまま利用する。
工事の工程は、烏山頭ダムに貯水するための隧道工事と、濁水渓の導水工事を平行して進め、次いで、烏山頭ダムの本体工事にかかり、最後に、水田をまんべんなく導水するための給排水路工事を行う、4工程に分けて建設がなされた。大正9年に着工し、昭和5年に嘉南大しゅう事業は、10年間を要し竣工した。
◇
烏山頭ダムの諸元は、堰堤盛土の高さ56m、堰堤頂部の長さ 1,273m、最大貯水量1億 5,000万m3、満水面積 6,000ha、堰堤付近水深47m、ダム形式はセミ・ハイドロリックフィル工法(半水成式工法)である。企業者は嘉南大しゅう組合、施工者は、大倉土木組(現・大成建設)が主であるが、鹿島建設、住吉組、黒板工業の企業も参加した。 また、給排水路の総延長は1万 6,000kmで、地球半周近い距離となった。総事業費 5,413万円、現在では、5,000 億円以上要するであろう。この総事業費のうち、約半額は国庫補助で、残りは受益者負担であった。完成によって嘉南平野15万haの地域は水稲、甘蔗の作物の大増産となり、組合員の負担費は回収されることとなった。
なお、この事業の規模は、長野県木曾郡王滝村、三岳村に牧尾ダムを建設し、木曽川の水を岐阜県から尾張東部の平野及びこれに続く知多半島一帯に、農業用水、上水、工業用水を供給している愛知用水事業(昭和36年完成)の10倍にもなる。
◇
しかし、この嘉南大しゅうのような大事業にあたっては、必ずといっていいほど、事故や事件がおこり、一時暗礁に乗り上げることがある。
大正11年、八田與一は、アメリカのダム視察を終えて、帰台する。その年の12月6日、烏山嶺隧道工事が90m堀り進んだとき、石油が噴出し、爆発事故が起こり、死者が50余名を数えた。だが、與一はこのことに屈することなく、信念を持って、部下達を督励し、最も地盤の弱かった地点を無事乗り切った。
もう一つの試練は、大正12年9月1日の関東大震災がおこったときである。この大震災により、日本は政治、経済、社会面で大混乱となり、その影響は、台湾にも波及した。嘉南大しゅう事業の大幅な補助費の削減となり、組合員の半数が人員整理となった。與一が一番辛いときである。 『「退職者の中には、有能な者がかなり含まれております。この者達よ り、他の者を解雇した方が、現場としては有難いのですが」 静かに聞いていた與一は、 「私もいろいろ考えた。確かに、力のある者を残しておきたい。しか し、能力のある者は、他でもすぐ雇ってくれるだろうが、そうでない 者が再就職するのはなかなか難しい。今、これらの者の首を切れば、 家族共々路頭に迷うことになる。だから、あえて、惜しいと思われる 者に辞めてもらうことにした。その穴埋めは、君達が残った者を教育 し補ってくれ。辞めさせる以上、辞めていく者の就職口は、必ず私が 見つけてくる。君達も苦しいだろうが、私もつらいのだ」 と苦汁に満ちた顔で語った。 係長の誰もが、心で泣いていた。決して、部下を粗末にしない與一 の温かい心が泣かせたのである。 もはや、誰も何も言わなかった』 『與一は、その後、退職者の職場探しのため奔走することになる。そ して、烏山頭出張所に勤めていた時より、良い俸給の職場を探し出し ては世話をした。與一は、決して、技術者を安売りする人間ではなか った。就職を頼みに行った会社で高い俸給を要求して、それを通して しまうのである。 このことが、また、與一の評価を高くした。』
◇
もう少し、與一の人間性を追ってみる。土木技師としての矜持が、アメリカのダム権威者ジェル・デ−・ジャスチンとの技術論争で現れる。
『與一が、こうしたオ−バ−フロ−方式による余水吐を設計してい たのに対し、ジャスチンは、貯水池内に円筒型の余水塔を造り、送水 口と同様の余水吐にすべきであると論じていたのである。 與一は、翻訳する一方で、反論書を書き上げなくてはならなかった。 與一は、アメリカ土木に対する、日本土木の挑戦者になっていた。 ここで、ジャスチンの意見が、総督府に取り上げられ、大変更を余 儀なくされることになれば、自分に対する信用が、一夜にして消え去 るだけでなく、日本の土木界がいつまでたっても自立できない、模倣 の時代が続くことになると思っていた。 與一は、三日三晩を要して、ジャスチンの意見書に対する反駁書を、 日本文と英文でまとめ上げ、総督府に提出した。』
この反駁書によって、與一は、総督府、ジヤスチンに対して、説得できた。 嘉南大しゅう事業にあたっては、烏山頭出張所を含めて、宿舎、小学校、病院を建設し、また、娯楽施設をつくり、與一は組合員とともにゲ−ムに興じている。
『與一は、勝負事が好きであった。伸るか反るかの大仕事をしている のだ。勝負事が好きになるのはあたり前じゃないかと考えていた。與 一は碁と麻雀を好んで打った。(中略) 「従業員は昼は現場で怒られ、夜は麻雀で怒られ、親父にはかなわん 」と苦笑するが、決して煙たがらない。與一がクラブに現れると、一 段と話がはずみ賑やかになり、クラブ内が活気に満ちてくる。』
このように、ジャスチンの対応とはまったく違う、意外な與一の人間性が現れており、面白い。
◇
嘉南大しゅう事業の完成後、八田與一は、昭和10年8月福建省の灌漑事業調査、昭和15年11月海南島の発電事業と水利事業調査、昭和16年5月日本、朝鮮、満州の主なダム視察を行った。このとき、朝鮮鴨緑江に建設中の水豊ダム、満州第二松花江に建設中の豊満ダムを視察、さらに黄河と揚子江をみてまわっている。また、昭和17年4月25日、建設中の小河内ダムを視察、工事用ケ−ブルクレ−ンをみることが主であった。その半月後、5月8日、東シナ海沖で與一は帰らぬ人となった。
◇
八田與一の業績について、高橋裕東京大学名誉教授は、「いま国際化の波の中で、多数の日本人が世界各国で働いている。その場合、最も重要なことは、現地の一般庶民の幸せを願うことであり、現地で慕われるような業績を積むことである。日本人が憎まれていた戦時中の中国で、八田技師の行動記録こそは、克明に記録されるべきである。それはこれからの国際社会でのわれわれの生き方に通ずるからである。」と、この書の序文で称賛されている。
|
|
|
|