《福岡大渇水》
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水使用の形態における都市用水は、生活用水と工業用水に分けられ、さらに生活用水は家庭用水と都市活動用水に分けられる。家庭用水は主に飲料水、調理、洗濯、風呂、水洗トイレに使用され、都市活動用水は営業用水として飲食店、デパート、ホテル、美容院、事務所、病院、公共用水として噴水、公衆トイレ、消化用水に使われる。 また、工業用水は、ボイラー用水、原料用水、製品処理用水、洗浄用水、冷却用水、温調用水等に使用される。これらの都市用水がスムーズに供給されることが、安定的な都市活動の一要因である。
ところが、これらの水が給水の制限を受けたり、あるいは給水がストップとなったとき、都市活動はパニック状態に陥ることになる。 実際に、給水制限が昭和53年5月20日から昭和54年3月25日までの 287日間も続いた、「福岡砂漠」と呼ばれる福岡大渇水がおこった。
この年に入って、福岡地方は異常少雨傾向で、雨量は平均の約半分以下で極端に少なく、5月に入って福岡市の水源ダムは貯水率18.7%( 730万m3)と減少し、福岡市は5月20日から給水制限(15時間給水)を開始した。6月1日給水制限が強化され、5時間給水となる。完全断水世帯が4万戸を越え、断水による休校が続出。自衛隊が出動、各地から救援水が届いた。 さらに9月1日6時間断水が続き、人工降雨作戦開始したが降雨は得られず、寺内ダムからの底水取水を行った。9月15日江川ダムの貯水量はゼロとなり、市民の生活の苦労は続く。この間、降雨はあるものの事態は改善しなかった。 12月22日年末年始のため24時間給水。昭和54年1月10日から再び12時間給水制限に入る。春の降雨により貯水量が増え、漸く3月25日給水制限を全面解除した。 287日間に及ぶ給水制限は福岡都市圏に大きなダメージを与えた。このとき原水確保のため、寺内ダムからの緊急放流、緊急河川取水事業、農業用水の転用、深井戸掘削工事、人工降雨実験などが行われた。しかしながら、水を多く使用する美容院や飲食店、学校給食関係の食料店では渇水倒産がおこった。開店早々の料理屋が渇水のため営業が出来ずに閉店してしまった。 市民生活では、とくにアパート暮らしの老人はバケツの水を運ぶ辛さを味わい、蛇口をひねれば水が出る生活に慣れきった市民には、水がいかに大切だということを体感した。
結局は多くの雨が降らねばこの労苦は解放されず、だれでもが喜雨を待ち望んだ。福岡県知事亀井光、福岡市長進藤一馬、福岡地区水道企業団企業長桶田義之、福岡市水道事業管理者藤原豊治、そして建設省九州地方建設局長下川浩資、水資源開発公団筑後川開発局長副島健の在職のときで、26年前のことである。この大渇水のルポルタージュとして纏めた斉藤充功著『水が無い渇水都市 287日に学ぶ』(山手書房・昭和54年)は、報道記者の取材に拠るものである。
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