《佐賀というところ》
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石垣群が古代遺跡を思わせるような棚田は、日本の水田の10%を占める。いま、棚田の価値が見直されている。それは農業生産活動を通じ、安全な食料の生産、治水利水における国土保全を図り、生態系を守り、良好な景観美をつくり出しているからである。 2004(平成16)年9月3日、4日第10回全国棚田(千枚田)サミットが、蕨野の棚田のある佐賀県相知町で開催された。若き古川康佐賀県知事は、自ら「人の手から手へ、幾年もの時を越えて〜今、未来に活かす棚田〜」のテ−マで基調講演を行い、長野県の棚田、だんだんたんぼを見て、棚田を意識したこと、高知県梼原の棚田の魅力を語り、先人が培った伝統的な技術である棚田の活用と保全を力強く訴え、棚田的な発想をもってこれからの地域づくり、国づくりへの示唆を与えた。
佐賀の棚田は、蕨野をはじめ、大浦(肥前町)、浜野浦、(玄海町)、岳(西有田町)、江里山(小城町)、大串・西の谷(富士町)の6ケ所が「日本の棚田百選」に選ばれ、心安らぐ田園風景をかもしだしている。棚田とは欠かせない溜池が、県内に2937ケ所(1989年度調査)存在し、貴重な水利施設の役割を担っている。北方町の永池溜池は、上、中、下の3段の池となっているが、江戸初期に成富兵庫茂安(永録3(1560)年〜寛永11(1634)年)によって築造され、この水は杵島水路で白石平野(干拓地)まで農業用水として導かれる。
兵庫は佐賀藩の水、土壌、気象、地形を知り尽くし、嘉瀬川、六角川、松浦川、筑後川の特徴をそれぞれ活かし、治水利水の水利秩序を確立した。自然の力に対抗せず、逆にその力を利用し、水を遊ばせ、ゆっくり流す、貯める、そして循環させる治水利水の思想をもって、各河川に自然遊水池、横堤、野越し、水防林、淡水(アオ取水)の伝統的な河川技術を採用した。
兵庫の功績は、筑後川の洪水を守るために12kmにわたる堤防を築いた千栗土居(北茂安町)、嘉瀬川に石井樋(大和町)を築造し、多布施川に導水して佐賀城下の防衛水、飲料水、周辺の灌漑用水の確保、城原川の右岸一帯潤う三千石井樋と横落水路(神埼町)、福岡藩の那珂川から域外分水し、それを田手川に導水する蛤水道(東脊振村)、さらに松浦川の下を横断し、対岸まで農業用水を導き、サイフォンの原理を応用した馬の頭(伊万里市)などの水利施設があげられる。これらの施設の築造にあたって兵庫は、自ら現場で地元民と寝起きを共にし、協議し、納得のうえで工事を行ったという。地元民からは「水の神様」と慕われた。
佐嘉神社の境内地に明治維新に活躍のあった佐賀七賢人として、鍋島直正、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信の碑が建立されているが、兵庫はこの七賢人に優とも劣らない人物である。兵庫の水利秩序の確立が佐賀藩35万7千石の経済体制をつくり、さらに明治期、肥前国を雄藩として飛躍させる原動力となった、といえる。
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佐賀県は九州の西北部に位置し、東に福岡県、西に長崎県と接し、北に玄界灘、南は有明海に面し、面積2,439Km2、(可住地面積 1,340・54.9%)人口87万2千人である。 県内を流れる河川は、一級河川嘉瀬川、六角川、松浦川、筑後川の4水系 283河川(延長1060km)、二級河川有田川、塩田川、鹿島川59水系 174河川(延長 509km)、準用河川 156河川(延長 163km)となっている。これらの各河川の特徴を5つに分けることができる。第1は佐賀平野を蛇行して流れ有明海に入る暖流河川(嘉瀬川、六角川)、第2は佐賀平野における干潟を流れる河川水と有明海の潮汐の作用により、澪筋に形成された江湖(佐賀江川、八田江川、本庄江川)、第3は長崎県境にある多良岳山系等から流れ有明海へ注ぐ急流河川(塩田川、鹿島川)、第4は県西部の山系から流れだし玄界灘へ注ぐ平均的な河川(松浦川)、第5は福岡県境に沿って有明海に注ぐ九州一の大河筑後川である。
佐賀平野は、脊振山地から流出した土砂が、有明海より戻されて堆積し、広大な低平地をつくりだした。この平野を流れる田手川、城原川、嘉瀬川、六角川、筑後川は沖積平野特有の天井川で、このため洪水がおこりやすい。県土は44.8%が山地で、55.2%が平地を占め、全国平均の66.4%の山地、33.6%の平地から対比すると、山地の割合が少なく、平地の割合が多い。 このことは、森林が少なく、保水力に乏しく、逆に広大な平野には当然水利用の需要が多くなり、水が逼迫する。一端降水になれば、一気に雨水が流出することとなる。昔から「降れば大水、照れば干ばつ」と言われ、洪水から生活を守り、また灌漑用水や生活用水を得るために「水」との闘いであった。前述した成富兵庫の水利施設の築造もまた、佐賀藩における治水利水の闘いの結果であったことを物語っている。
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