■玉川毒水とその対策の歴史
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玉川温泉の大噴から流れ出す強酸性泉は、玉川の水を酸性に変え、魚などの生物や農業に大きな影響を与え、「玉川毒水」とよばれた。酸性度について中和処理施設の運転開始前の状況で見ると、玉川ダム地点でのpHは土木構造物に影響を及ぼさない限界とされるpH4を下回り、農業用水の取水地点である神代ダムの下流地点でも農業用水基準のpH6.0〜7.5が確保されない状況だった。
被害を軽減するため、古来より様々な対策が試みられてきた。
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〔対策は天保年間に始まる〕
最初に行われた対策は、天保年間に秋田藩主佐竹候の呼びかけに応じ、角館の藩士田口幸右エ門父子による毒水排除工事だった。
明治以降は、断続的に秋田県等により対策が試みられたが、いずれも十分成功するまでには至らなかった。
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〔昭和初期の地下溶透法〕
昭和14年には、電源開発と農業の振興を目的とした「玉川河水統制計画」が策定され、玉川の河水を田沢湖へ導入し希釈する方法と、それに併せて、玉川温泉付近で地下溶透法による対策が実施さた。この方法による酸性水対策は、秋田県と東北電力により継続して実施され、当初は一定の効果をあげたものの、田沢湖の酸性化等により玉川の水質も年々低下した。
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〔昭和後期の簡易石灰石中和法〕
このため、昭和47年度より秋田県において東北電力の協力を得て野積みの石灰石に酸性水を散水し、中和させる簡易石灰石中和法により対策を行っていた。
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