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1 パ−マ−の横浜近代水道布設


 平成16( '04)年12月26日に起こったスマトラ沖大地震と津波は、16万人を越える死者を出した。いまでも懸命なる復旧作業が続けられているが、とくに、人命にかかわる水や医薬品や食糧が不足している。WHOによれば水は生命を維持するために1日1人あて3リットルを摂取する必要があり、衛生的な状態を保つためには1日1人あて20リットル以上が必要とされており、このような清潔な水の供給も急務である。
 現在、日本人の水の使用量は1人1日あて平均 352リットルとなっている。生活用水の使用量の推移をみてみると、昭和40年69リットル、昭和45年 224リットル、50年 261リットル、60年 287リットル、平成2年 318リットルと増加している。生活向上に伴う日常生活に欠かせない水が、ダム等水資源開発施設の建設、さらに水道施設の設置によって供給されるようになったからである。(国土交通省編『日本の水資源(平成16年版)』)

 日本の近代水道布設の目的の一つは、コレラ菌など伝染病の感染を防ぐことにあった。明治10年9月長崎に来航したイギリスの商船からコレラ菌患者が発生、折からの「西南の役」後の帰還兵から瞬く間に全国に蔓延した。
 コレラ患者数は13,710人のうち7969人が死亡した。明治15年には横浜市民1400人が伝染病にかかっている。明治10年〜明治20年のコレラ、赤痢、腸チフスの水系伝染病発生の患者数 821,320人(死亡者 372,262人)で、明治10年の人口3587万人に対し、羅漢率は非常に高いといえる。のちに判明するが、その原因は汚染された飲み水による水系消化伝染病であった。ドイツ人、コッホによるコレラ菌の発見は明治16(1883)年のことである。(斉藤博康著『水道事業の民営化・公民連携』(日本水道新聞社・平成15年))

 このような伝染病に対処するために清浄な水道水の供給が必要とされた。日本初の近代水道の布設は、明治20年9月横浜市(計画給水人口7万人)において、イギリス人工兵少将ヘンリ−・スペンサ−・パ−マ−の計画、設計、監督によって、水源、相模川三井取水口(津久井町)から野毛山貯水池(横浜市)までの約43キロが施工され、水道の給水が開始した。明治30年8月横浜市は給水量の不足を乗り切るために相模川の三井取水口を廃止し、道志川から新たに導水を始めたが、大正4年3月さらに道志川上流鮑子地点に取水口を移し、毎秒1.03m3を取水することとなった。大正5年6月横浜は水道水源林として道志村内の山林 2,781haを取得し、植栽を進め、清浄な水の確保に努めている。

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