独立行政法人土木研究所客員研究員・作家 高 崎 哲 郎
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河川学者安藝皎一とTVAの精神:戦前
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私は、安藝皎一(あきこういち、1902−1985)の「評伝」執筆のため、この2年間氏の83年の足跡確認の調査を続け、同時に資料収集を国の内外で行ってきた。安藝の人生を知らない読者も少なくないと思われる。そこでまず氏の生涯を紹介したい。戦後のダム建設史を理論と実践の両面から考えるとき、氏の存在を無視することはとても出来ないのである。(ちなみに氏の子息安藝周一氏は著名なダム技術研究者である)。 氏は激動の昭和期を生きた傑出した河川学者・技術官僚であり同時に国際人である。さらには知識人であり名文家である。氏の著書は学術書や専門書も含めて20冊近くに上る。論文や随筆は数え切れない。いずれも技術者としては驚くべき数であり量である。
安芸は明治35年(1902)4月9日、内務省土木局技師杏一(きょういち)の長男として新潟市に生まれた。新潟高校(旧制)を卒業後、東京帝大文学部英文科に進む。が、1年後に工学部土木工学科に再入学する。土木工学科では水理学者物部長穂(もののべながほ)のもとで河川工学を学び、昭和2年卒業して内務省に入省する。(戦前のダム研究を考えるとき、物部の存在は極めて大きい)。
安藝の河川技師としての人生はまさに「昭和」と共に始まった。鬼怒川改修工事の現場で、主任技師(現事務所長)として荒川放水路開削を指揮した技師青山士に巡り会った。青山はパナマ運河開削工事に携わった経験談をよく安藝に語って聞かせた。氏の人生観に影響を及ぼす。
「『大自然の力に抗(あらが)ってはいけない。むしろそのエネルギーのスムーズな変換を追及すべきで、それが人類の英知である』と青山さんは語っていました」。
これは青山の人生哲学に通じるものがある。鬼怒川では最上流部にダム(現五十里ダム)を建設し、下流部では流れの湾曲部をショートカットする鎌庭捷水路(かまにわしょうすいろ)の開削が計画されていた。ダム建設は戦時中にすべて中断となる。
次いで氏は富士川改修事務所主任技師となる。日本の代表的な急流河川である。氏は江戸時代を通じて継承された甲州流工法に関心をもち、古文書解読という工学者には難解な課題にも挑戦した。安芸は独創的論文『河相論』を著し、土木学会賞を受ける。富士川には氏の設計施工した水制が今日も残されている。工学博士号を授与された。
昭和14年内務省(本省)土木局勤務となり後に興亜院との兼務となる。技術部長宮本武之輔は安藝の才能を高く評価し、中国大陸の治水対策に取り組むよう求められた。氏は黄河・揚子江(長江)など、中国大陸の日本とは桁違いの大河がもたらす大水害の惨状を間近に見た。ここにあって氏の河川観は激変したといっていい。軍国主義が高まる中、内務省は国内の直轄ダム建設を目指した河水統制事業に乗り出す。
戦時中、東京帝大第二工学部(戦後廃止)教授に兼務で就任した。氏は、戦時下の言論統制の厳しいこの時期にアメリカ・TVA(Tennessee Valley Authority、テネシー河流域開発公社)関連の英文資料を入手して熟読した。それはF・D・ルーズベルト大統領が唱えるニューデール政策の中核をなす一大プロジェクトの解説書類だった。一大国家プロジェクトの最大の事業は、テネシー河の大洪水や土壌流失によって貧困を強いられている流域での32のダム建設による洪水・治水・舟運対策と電源開発である。今日の多目的ダム建設であり、それによる総合的地域開発と流域民主化の促進である。戦時下の「敵国資料」をどのように入手したかは不明だが、慎重に保管していたようである。
「私は前からTVAには関心を持っていたのであった。これはまだ戦争中のことであったが、D.E.リリエンサール(注:David .E. Lilienthal, 通常はリリエンソールと記す)の『TVA−民主主義の前進』(”Democracy on the march”)というTVAの十年を記念しての英文報告書を手にすることができて強い関心を惹(ひ)かれたことを記憶している」(安藝『風土とともに』)。「TVAは草の根民主主義(グラス・ルーツ・デモクラシー)の原点である」(リリエンソール)。安藝が好んだ言葉であった。
安藝は資料類を繰り返し読んだ。この「敵国」の一大国家事業・テネシー河流域開発の高邁な精神を描いた法律家の英文書に決定的な影響を受けた。その後の氏の「河川哲学」の道を決定したとも言える。氏にとって「第一の衝撃」、最高の教本といえるものだった。それは戦時下の「敵国」の図書でありながら大学の講義に積極活用していることでもうかがえる。ここに河川学者安藝は、大規模な治水・利水事業に対する「精神的支柱」(それは政策の柱でもある)を見事にとらえた、といえる。しかし実践の場はなかった。
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河川学者安藝皎一とTVAの精神:戦後
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敗戦直後の昭和21年、内務省土木試験所(現土木研究所)所長となる。「今後における土木事業遂行に就(つい)ての構想」で強調する。 「国土は疲弊しきっているが、土木技術者は民主国家設立のために率先して事業を展開し、同時に事業内容を極力国民に公開する努力をしなければならない」。敗戦後の日本列島は大型台風に次々に襲われ国土は疲弊した。国土復興への優先課題のひとつが大洪水対策だった。昭和23年、氏はGHQ天然資源局の要請を受けて経済安定本部資源委員会事務局長に就任した。
GHQ資源局の年下の顧問エドワード・アッカーマン博士との巡り会いは氏にとって「第二の衝撃」であった。同氏はニューディール政策信奉者の進歩的地理学者で、「日本は資源の有効な活用を図れば敗戦の貧困から脱出できる」と提唱し、安藝に資源活用の方法、中でも水資源活用に積極的に取組むよう働きかけた。それはTVAをモデルとしたダム建設と総合的な地域開発を目指すよう求めたものだったが、資源を水資源のみに限定せず、土地資源、エネルギー資源などにも適用した概念であった。いずれも敗戦国の緊急課題ばかりであった。
安藝はTVAの現場を是非視察したいと考えた。米軍占領下の25年5月から4カ月間、氏はアメリカを訪問する機会に恵まれた。現場を視察して「TVA方式」が敗戦後の日本を救うカギであると確信するようになった。英会話の得意な氏には通訳は必要なかった。
帰国後、TVAや土壌保全事業などについて視察談を刊行した。27年『河川工学序説』を刊行した。「我々は技術者に与えられた任務は河川をして我々の生活環境の向上に資せしめなければならぬものであり、国家資源としての水の最大利用を企てるにあると言える」。大洪水対策から水資源確保へ、さらには資源の総合利用へと、氏の専門分野は大きく広がっていく。ここに敗戦国日本を救い民主化を促進する公共事業としてダム建設が進められることになり、大小河川の渓谷ではダム建設の槌音が響くのである。
30年ジュネーブでの国連第一回原子力平和利用国際会議に出席した氏は、資源小国日本のエネルギー問題と原子力開発の関係を深刻に考慮する立場に立たされた。 敗戦国のエネルギー問題は、電源開発ブームが最高潮に達した頃から石炭から石油へのエネルギー革命が進む。新しいエネルギー源として原子力開発が台頭する。氏は原発問題にも取組む。昭和35年、国連のエカフェ(ECAFE,アジア極東経済委員会)治水水資源開発局長としてバンコクに夫人同伴で赴(おもむ)いた。
日本人技術官僚としては国連高級スタッフの最高ポストである。その後もメコン河などアジアの国際河川に強い関心を持ち、メコン委員会では開発計画へ助言を続けた。タイでは水資源開発や地域開発を助言した。日本大学・関東学院大などで教鞭をとるかたわら40年代以降はユネスコ水文学10年計画、世界動力会議などの国際会議に精力的に参加し、時に議長を務めた。60年4月27日他界。享年83歳。
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総合的地域開発と民主主義の進展
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アメリカ・TVAの影響を受けて出発した日本の戦後大ダム建設の歴史(政策と実践)を検証するにあたって、私の論点は、リリエンソールに倣(なら)って言えば「戦後のダム建設は総合的な地域開発と地域・流域の民主化に寄与したか?」ということになる。ダム建設は、流域住民の心も暮らしも豊かに出来たか、との問いである。大ダム建設の計画から竣工までの経過を追うことにより、その歴史的現実を描いていきたい。技術論は私の任ではないが、必要に応じて私見を述べることにする。
私は、安藝の足跡確認調査に歩調を合せるようにこの2年間、国内各地でダム取材を続けてきた。国土交通省や各電力会社・電源開発株式会社それに(独)土木研究所などの多くの機関や関係者にご協力をいただいたが、様々な理由により原稿執筆が大幅に遅れてしまった。ここで紙面を借りてお礼と共にお詫びを申し上げ、今回の連載を読んでいただくことで、私の「ダム論」を改めて理解していただければと念ずる次第である。今日流行の「脱ダム宣言」との「流行作家的パフォーマンス」とは、スタンスを異にすることも書き添えておく。次回9月号から連載を始める。
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これは、「月刊ダム日本」に掲載されたものの転載です。
(2005年8月作成)
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