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「理の塔、技の塔」
〜私説・戦後日本ダム建設の理論と実践〜
(1)
築土構木―ダム建設・前史(その1)―

独立行政法人土木研究所客員研究員・作家
高 崎 哲 郎
 
ダムに5つの顔あり

 私の手元に「ダムの役割」(ダムの役割調査分科会・平成十七年三月刊)がある。よく出来た「日本ダム小史」である。今回は、この報告書から少なからず引用することになるので、巻頭にまずお断りしておく。(『土地改良百年史』も好著である)。同書によれば、「ダムの役割」には5つある。

@有史以来、日本の経済・文化と人口を支えた稲作農業において、農業ダムが果たしてきた役割である。古墳時代から江戸時代を通じ戦後に至るまで、新田開発にため池・農業用ダムは重要な役割を果たし続けてきた。戦後は特に農業生産の高度化・変革などを水利面から支えた。

A明治期の開国間もない時期以降、港湾都市を中心とする都市の衛生面を支えた上水道の水源としての役割である。

B明治・大正・昭和前期における日本の生活・産業をエネルギー面で支えた電力の過半を担った水力発電に果たした発電ダムの役割である。日本の電源構成が水主火従の時期は明治44年(1911)から昭和37年(1962)までのおよそ半世紀続いた。

C洪水調節を含む多目的ダムが第二次世界大戦復興に果たした役割である。安全性ばかりでなく食糧やエネルギーが不足する中で、食糧増産と電源開発促進が治水と併せて解決する手段として、多目的ダムを中核とする国土総合開発が進められた。

D高度経済成長期における大都市への人口・産業の集積に対して要請された都市用水水源として、同時に大都市の治水安全度向上に対する洪水調節としてのダムの役割である。

 今回は、@(農業用水とダム)を中心にすえて、人類には欠かせない水のストック装置であるダムの歴史的役割を考える。これは「コメ国家」日本の歴史そのものと言える。(今日、河川法では堤高が15メートル以上の構造物をダムと呼ぶが、今回登場する歴史上のダムは「堰」と呼んだほうがふさわしく、ダム湖(貯水池)もその大半が「ため池」である)。

大地に刻まれた貯水池、その1

 世界の四大文明の発祥の地は、中国、エジプト、インド、イラクとされ、いずれも大河沿いに発達したことは言い古された史実である。(文明発祥の地の大半が、今日発展途上国に甘んじ国難に陥っていることは一考の価値がある)。これら古代遺跡には、水利構造物が数多く発掘されている。世界で最も古いダムについては諸説があるが、紀元前2950年頃のナイル河畔メンフィスの遺構にあるとされる。中国・春秋戦国時代(紀元前8世紀から同3世紀)には、内陸地で巨大な貯水池が構築されたことが史料に記述されている。貯水池掘削の技術は海を渡って日本にも届く。

 日本の古代ため池建設史は大陸からの影響を無視しては語れない。稲作や農耕技術さらには築堤などの土木技術一般が朝鮮半島からの渡来人、場合によっては中国大陸に渡った僧侶たちによってもたされた。(仏教布教と土木技術や病人治療が不可分であったことは注目に値する)。

 『日本通史 第3巻』(岩波講座)の「渡来人と日本文化」から引用する。
 「記紀(注:古事記と日本書紀)には、崇神(すじん)・垂仁・景行朝に池が作られた記事が見える。例えば、垂仁記に狭山池(さやまいけ)が作られた伝承を記すが、近年の狭山池調査事務所による発掘調査で、その築造時期は、六世紀末から七世紀初めにほぼ限定できるようになった。開析谷を一箇所の堤によってせき止める初源的な池であっても、水圧に耐える強固な堤を築き、水量を調節できる樋門を設置する技術を必要とする。四世紀にはまだそうした池は出現していない。五世紀初頭前後以降に渡来した人々の技術により、灌漑機能をもつ池の築造が可能となった。(中略)。倭漢氏(注:渡来人)が優れた土木技術を有していたことがわかる。仁徳朝の茨田堤(まんだづつみ)・横野堤(よこのつつみ)を築き、難波の堀江を掘削したと伝えるのも、渡来した技術者によるものであった」。

 大和朝廷(4世紀から7世紀)は米作の普及に合わせてため池を次々に掘った。大阪府南部(現大阪狭山市)の狭山池では築造数次にわたるかさ上げを行った。律令国家の成立をもたらした大化改新(645年)により、公地公民公水主義が打ち出され、条里制のもと農地や水利の整備拡充は国によって強力に進められた。

 香川県満濃町に広がる満濃池は、この時代(700年頃)に築造された。国による水田管理は平安時代以降の荘園の拡大に伴い崩壊して、荘園主による領内水田管理体制に移行した。12世紀から13世紀の武家政治の時代を迎えて、個別の荘園の枠を超えて水利開発が進められるようになった。この時代から戦国時代までは、西日本では水不足が深刻化し、ため池開削が進められた。瀬戸内地方では今日も多くのため池が残されている。


満濃池
僧行基と土木技術

 大阪南部の狭山池の増築に、僧行基(668―749)が技術面も含め指導的役割を果たし、また讃岐平野を潤す満濃池の改修に僧空海(弘法大師、774−835)が現場作業の農民に仏の教えを諭すなど深く関わったことはよく知られたことである。それらは、たとえ伝承・説話であったとしても、土木技術の使命、とりわけ治水・利水の政策を歴史的にとらえる場合に、極めて示唆的であることを忘れてはなるまい。宗教指導者が当時としては高度な土木技術を身につけていたことが重要である。私が特に関心を持つのは大僧正行基である。


狭山池
 行基の生涯を簡単に記したい。行基の師道昭(どうしょう)は、渡来人の家系に生れ、今日から見れば初歩的ではあるが架橋や河川改修の技術を習得していた。行基も渡来人(百済系)の系譜である。近畿地方で宇治川や淀川に橋を架け、河川改修を行った。道昭が逝去すると、行基は僧侶の位を捨て、河内の生家で民衆に仏の教えを説いた。その間、今日の大阪府や京都府・滋賀県に脚を運び、木橋を渡し、道路を通し、ため池を掘った。国からの資金援助はあえて求めなかった。
役人は、行基の社会事業を「国の許可を受けていない民を惑わす行為」と批判して5度にわたって中止を命じた。「僧尼令」違反との理由からだった。行基はこれに耳を貸さなかった。彼の真摯な教えと土木事業の成功により、彼を慕う民衆は増えていった。天平3年(731)洪水常襲地であった今日の兵庫県伊丹市に昆陽池(こやいけ)を開削した。洪水防御と灌漑用水確保を兼ね備えた多目的ダムとダム湖であり、1200年経った今でも上水用貯水池として「現役」である。(池の一部は阪神淡路大震災の活断層にあたる)。

 昆陽池完成の翌年、行基は河内の狭山池を改修した。堤の高い堰堤は、敷葉工法(しきばこうほう)という斬新な工法が用いられている。彼が単なる口説の僧侶でなかったことを示すものであろう。行基は、壮年時代の30年間近畿地方を中心に、橋6箇所、池15箇所、水路6箇所、船着場2箇所、樋管3箇所、堀4箇所、宿泊所9箇所を造り、寺院は49箇所も建立している。瀬戸内海の船着場や港の構築にもあたった。その活動は全国に及び、最初の日本全図(行基図)を作成したことでも知られる。いずれも特筆すべき事業である。また行基は東大寺建立に協力したことから、聖武天皇に敬重され、日本で初の大僧正の位を授けられ、人々は彼を「行基菩薩」と尊崇した。天平勝宝元年(749)、80才で世を去った。近鉄奈良駅前に行基の銅像が立っている。良い顔である。

大地に刻まれた貯水池、その2

 戦国時代から江戸時代になると、農地は国家のもではなく「私有地」となった。激変である。戦国諸侯や幕府の保護のもと、利根川や木曽川など大河川中流部に取水口を設けて長大用水路により導水する大用水が開削され農業用水の安定を図った。新田開発は、治水・灌漑技術の発達により、それまで放置されてきた三角州地帯にまで及びこれらの農地を大河川灌漑網に取り込んだ。当時の農業技術者は「地方巧者(じかたこうしゃ)」と呼ばれた。多くは庄屋・名主層であった。一方で水争いも絶えなかった。時には流血の惨事となった。江戸時代初期の慶長年間(1596年から1614年)における推定耕地面積約206万ヘクタール(うち水田約150万ヘクタール)は、明治初期には実測で約413万ヘクタール(同約227万ヘクタール)と約370年間に200万ヘクタール(同80万ヘクタール)増大した。この時代のため池は、江戸時代以前に築造年代が特定されていて受益面積が2ヘクタール以上のため池などに限定しても、その数は約1万7000箇所、貯水量は約7億立方メートル(トン)、受益面積は約22万ヘクタールに上る。ぼう大な面積である。文明開化を迎えると、幕藩体制下での用水管理体制は崩壊し、新たな用水管理体制が求められた。明治政府は農業政策においても、繁殖用家畜や種苗などの輸入とあわせて、欧米から水利技術の導入や技師の招聘をはかった。オランダ人技師ファン・ドールンら外国人技師が現地で指導に当たった。

 既耕地の「田区改正」は明治期に入ってからも、地主層を中心に耕地整理事業として行われ、明治32年(1899)に耕地整理法が制定された。
この法律は明治38年(1905)に灌漑排水事業を取り込む形で改正された。農業用水確保のための灌漑排水事業が土地改良事業の主流となった。大正12年(1923)には用排水幹線事業補助要綱が制定され、大規模な農業水利事業が国の資金を用いて行われるようになった。ここで地主層に代わって国家が農業用水開発・確保の主役となった。この時代でも、西日本を中心に中小河川やその周辺部で、ため池の造成・改築、ため池の連携事業などが続けられた。香川県大野原町に残る豊稔池は日本初のマルチプルアーチ形式によるものであった。


豊稔池(撮影:安河内 孝)
[関連ダム]  狭山池ダム(再)  満濃池(再)
これは、「月刊ダム日本」に掲載されたものの転載です。


(2005年9月作成)

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