1.出雲三兵衛の治水事業
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平成17年6月1日朝JR出雲市駅に降り立った。駅前通りを北へ、市役所方向へ歩いていくと高瀬川にぶつかった。田植えのためであろうか、水は滔々に流れていた。この川畔に、左手に地図を持った和服姿の大梶七兵衛(1621〜1689)像が建っている。七兵衛は江戸期、出雲平野の治水事業を行った一人である。同様に周藤彌兵衛(1651〜1752)、清原太兵衛(1711〜1787)もまた治水対策に貢献している。この三人を「出雲三兵衛」という。
出雲平野は斐伊川、神戸川の洪水、宍道湖の増水によって絶えず水害を被っていた。 宝永12年ごろ、日本海へ流れていた斐伊川は洪水によって東へ流れを変え、宍道湖へ注ぐようになり松江藩の領民を一層悩ました。 延宝5年、七兵衛夫妻は荒木浜に居を構え、砂地の土地柄に悩まされながら松の植林を行い、さらに荒木浜へ、斐伊川の左岸、来原地点を取水口として高瀬川を開削した。 このときも砂地に悩まされた。取水が地中に吸い込まれて流れず、七兵衛は、川底に筵を敷き、その上に粘土をつめて漏水を防いだ。高瀬川の開削の他にも間府川、差海川の開削も手掛けている。
一方、周藤彌兵衛は意宇川の日吉切り通しを完成させた。 意宇川は島根県八束郡八雲村南部山地を源とし、平原川、桑並川、東岩坂川を併合し、松江市で斐伊川(中海)に合流する暴れ川であった。彌兵衛は岩山、剣山を切り貫き意宇川をショ−トカットすることにより、洪水の減災を図っている。 宝永3年56歳のとき、剣山の掘削工事に着手、62歳のとき出家、槌とノミで岩を切り続けて42年、97歳のとき日吉切り通しを完成させ、 102歳で大往生を遂げた。
当時、宍道湖の出口は大橋川と天神川の二つしかなく斐伊川等の洪水のときには、宍道湖の水位は2m程あがることもあり、湖周辺に水害をもたらしている。清原太兵衛は、この宍道湖の水を全長8kmに及ぶ佐陀川の開削によって日本海へ注ぎ、それまで沼地であった地域を水田に変え、さらに松江から恵曇港まで水運を開いた。
出雲平野の治水家、大梶七兵衛、周藤彌兵衛、清原太兵衛は「出雲三兵衛」と、今日でも畏敬の念をもって呼ばれているが、三兵衛とも治水事業に私財を投げ出したものの完成後の恩賞は僅かだったという。なお、三兵衛に係わる小説として、村井敏夫の『治水の偉人 大梶七兵衛』(平成14年)、同『清原太兵衛』(平成9年)、交易場修の『周藤彌兵衛』(平成6年)がHNS人間自然科学研究所(松江市乃木福富町735-188 )から各々出版されており、同様に児童書、漫画も発行されている。
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