2.京都府の水害
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戦前の水害
山城、丹波、丹後三国からなる京都府は、山城盆地、亀岡盆地、福知山盆地など河川に沿った平地を形成し、湧水や地下水も豊富で、この三盆地を中心に都市化が進んだ。京都府内には、一級河川淀川水系木津川など、 178河川、延長92.2km、一級河川由良川水系大迫川など 123河川、延長70.07 km、二級河川野原川など89河川、延長40.91 kmが流れている。これらの河川は、農業用水、水道用水、発電用水、工業用水に供され、京都府の地域と人々に多大な恩恵を与えてきた。一方、明治期田辺朔郎の尽力による琵琶湖疏水の完成は、京都に安定的な水道用水を送り続けている。
しかしながらその反面、京都府の河川は、盆地の地形上から、大雨や集中豪雨によって水害がおこりやすく、連続雨量が 200mmを越えると広い範囲でたびたび被害を及ぼした。 平安期には、治水に関する役所として防鴨河所(鴨川)、防葛野河所(大堰川)が設置され、江戸期には寛文新堰等の築造が行われている。一方東山区仲源寺には、目疾地蔵が安置されているが、この地蔵は雨止地蔵と称したという伝承も残っており、古くから水害に悩まされ、その洪水対処方法に苦慮してきたことをうかがうことができる。
明治期の水害をみてみると、明治18年7月紀伊半島から進入した台風のために木津川、由良川が大氾濫をおこし、堤防決壊 883ケ所に及んだ。さらに8月〜9月にかけて暴風雨による南山城水害では淀川の支流が各所で、堤防が決壊し、24年には淀川改修の運動がおこった。29年8月、由良川が大洪水となり綾部から福知山の橋が全て流失。29年4月「河川法」が制定され、30年淀川改修が着工され43年に完成した。43年9月木津川治水期成同盟会が結成され、木津川は改修時に、再び流域一帯の南山城に一帯に未曾有の大水害が発生した。その原因は上流の三重県、奈良県の森林乱伐や開墾によって、大量の土砂が木津川に流入していることにあったという。(森谷尅之責任編集『京都府の歴史』( 河出書房新社・平成6年) )
さらに大正12年6月水害がおこり、京都市内では団栗橋東端一部、橋桁とともに流失、倒壊家屋、床上、床下浸水家屋2千戸に及んだ。 昭和期に入ると、9年9月21日室戸台風による大水害(京都府編・発行『甲戌暴風水害誌』( 昭和10年) )、10年6月27〜29日にかけて、豪雨により京都市内の平地面積27%が浸水、市北部の高野川、岩倉川、市内を貫流する鴨川、高瀬川、堀川、天神川、御室川、白川が溢水氾濫し、死負傷者 100余人、流失家屋 480戸、浸水家屋43,000戸にのぼった。(京都市役所編・発行『京都市水害誌』( 昭和11年) )
戦後の水害
今年(平成17年)は戦後60年にあたるが昭和20年代、京都府は続けて水害に見舞われた。昭和24年ヘスター台風による水害を受けた。続いて25年9月3日のジェーン台風は、京都府園部町を中心に、昭和9年の室戸台風とほぼ同じ進路をたどった。この台風により死者3人、負傷者45人、半壊家屋1562戸に及び、太奏小学校等の半壊、重要文化財建造物の82件の被害を受けているが、仁和寺御影堂、建仁寺勅使門の屋根が大破した。(京都市災害救助隊事務局編・発行『ジェーン台風災害誌』( 昭和26年) )
昭和26年7月11日、京都地方を襲った豪雨は、河川を氾濫させ、人的、経済的被害を及ぼした。死者9人、負傷者27人、道路破損、橋梁の流失が相次いだ。中之立橋、京橋、伊香立橋、千田橋等(高野川)、栗夜叉橋、庄田橋、出町橋、塩小路橋等(鴨川)、上、下立売橋、春日橋通一丁筋目橋、春日通橋(紙屋川)が流失している。なお、桂川、鴨川、宇治川、淀川において警戒水位を突破し、 174ケ所の堤防決壊箇所が生じた。(京都市企画審議室編・発行『京都市七月水害記』( 昭和26年) )
昭和28年8月14日南山城地区を時間雨量80mmが襲い、総雨量は和東町で 428mmとなった。この豪雨で玉川の上流にあった農業用溜池の「大正池」と「二の谷池」が決壊し、土石流が発生した。井出町を中心とした被害は死者 336人、損壊流失家屋 904戸、床上浸水家屋 285戸の大惨事となった。「集中豪雨」という言葉は、このとき朝日新聞(8月15日付夕刊)で、「集中豪雨木津川上流で」の見出しで使用されたのが最初だという。(淡交社編・発行『京都大事典』( 平成6年) )なお、この水害については、京都府井出町史編集委員会編『南山城水害誌』(京都府井出町・昭和58年)に詳細に記されている。
さらに、昭和28年9月台風13号は、由良川、保津川、宇治川、木津川沿岸流域に大水害を及ぼした。この水害が、のちの、洪水防御を目的とした大野ダム、天ケ瀬ダム、高山ダムの建設につながっていく。この台風13号による保津川流域の被害は、倒壊家屋5戸、半倒壊家屋 550戸、床上浸水 135戸にのぼり、しかも被害はすべて低湿地に住む人であった。これを機に保津ケ丘地区に19戸が移転した。昭和49年から小集落改良地区事業が施行され、田畑の冠水はあるものの家屋の被害は減災した。(保津文化センター編・発行『保津水害写真集』( 平成2年) )
その後も、昭和34年伊勢湾台風( 死者9人)、35年台風16号桂川水系(死者11人、行方不明者59人)、36年第2室戸台風(死者12人)、40年台風23号、24号(死者4人、行方不明者20人)、47年7月豪雨(死者8人、負傷者17人)、同年9月台風20号(死者8人、負傷者28人)、58年台風10号(死者2人)と京都府の水害は続き、人的、経済的被害を生じさせた。
地球温暖化の影響であろうか、平成16年には台風が10個も日本に上陸した。とくに台風23号は由良川筋に大水害(死者9人)を及ぼした。このとき、舞鶴市、由良川沿いの国道 175号で37人の観光バス乗客が被害に遇い、救出されたことはまだ耳新しい。最近発行された植村善博著『台風23号災害と水害環境−2004年京都府丹後地方の事例』(海青社・平成17年)は、災害を地域の諸条件から論じ、減災対策を提言している。
以上、京都府における水害状況について概観してきたが、次に、ダム開発について年表でまとめた。
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