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食糧増産計画と愛知用水

 敗戦国の最大の緊急課題は、食糧確保とそのための農地開拓(農地拡大)であった。24年の土地改良法制定などにより、戦後の農政改革に即し耕作地中心主義の大規模な用排水事業の根拠となる法律が生まれた。食糧増産計画は既耕地の改良へ重点を置くようになった。ここで戦後復興の象徴のひとつ・愛知用水事業を取上げる。

 敗戦国・日本は大規模事業を実施する資金がなく、事業はいずれも世界銀行を通じて外資導入によった。第一号は愛知用水事業の資金調達であった。愛知用水事業は、昭和25年公布の国土総合開発法によって指定された木曽川特定地域の最大プロジェクトで、事業主体として30年に愛知用水公団が設立された。同事業は愛知県と岐阜県の一部に農業用水を供給する計画であった。設計施工に当たっては、ここでもアメリカ技術陣の支援があった。(27年サンフランシスコ講和条約が発効した。日本は6年8ヶ月に及ぶ占領統治から解放されて「独立」した)。

 農林省(当時)戦後最大の総合開発計画として立案された段階では、食糧増産が最大の目標だった。木曽川支流王滝川に牧尾ダム(ロックフィルダム、堤体高105メートル)を建設し、電力増強は1.3億kWhで、木曽川から取水した農業用水を岐阜県可児郡の一部と名古屋市東部丘陵地さらに古来大旱魃にあえいで来た知多半島3万ヘクタールに、また上水道(生活用水)と工業用水を名古屋市周辺と臨海工業地帯に供給する。幹線水路は112キロ。日本最大の用水路誕生である。


 工事期間中日本の産業構造に大きな変動が現れた。受益地の名古屋とその周辺は急速な都市化と工業化により水需要が急増した。日本の食糧事情は好転し、自給体制が整っていく。一部の農業用水を上水道と工業用水に転用することが工事中に決まった。その後高度経済成長と歩調を合わせて転用が進んだ。愛知用水公団は、後に発足する水資源開発公団(現(独)水資源機構)の母体となった。


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