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2.山梨県の河川

 山梨県の河川は、秩父多摩山系を源とする笛吹川、荒川、塩川をはじめ、南アルプス山系の山岳地帯から発する釜無川などが甲府盆地の南端で合流して、駿河湾に注ぐ 504河川、延長1665.6kmの富士川水系、富士山麓の山中湖を源とする桂川に南都留郡の各河川が集まり東流して、神奈川県に入る87河川、延長 365.5kmの相模川水系、大菩薩嶺から発生し、東流し小菅川などが合流し、東京都に入る10河川、延長43.9kmの多摩川水系、さらに6河川、延長20.2kmの湖水系からなっており、一、二級合わせて 610河川、総延長 2,095kmに及ぶ。


 河川の特徴はいずれも流路延長は短く、河床勾配は極めて急であり、とくに富士川水系に属する河川には、上流山地の崩壊、土砂の流失が甚だしく、いわゆる天井川を形づくっている。台風、集中豪雨による異常気象による出水では、大きな被害を被ることがある。相模川、多摩川水系に属する河川は、大部分が渓谷をなし、天然河岸を形成しているため洪水に対する危険度は比較的少ない。

 一方、富士の裾野に散在する山中湖(水深13.3m、面積6.78km2)、河口湖(14.6m、5.70km2)、西湖(71.7m、2.12km2)、精進湖(15.2m、0.50km2)、本栖湖( 121.6m、4.70km2)を総称富士5湖と呼んでいるが、四季を通じて観光客で賑わう。山中湖、西湖、河口湖は、湖水の調整と有効利用を図るために東京電力(株)が利用し、また本栖湖の水は日本軽金属(株)の発電に利用されている。(山梨県土木部治水課編・発行『山梨の河川』( 平成16年) )

3.山梨県の水害

 山梨県では決して忘れることのできない水害は、明治40年、43年に起こった。これらの水害の状況について、山梨日日新聞社編・発行『山梨百科事典』(平成元年)により、そのまま引用する。

明治40年水害(めいじよんじゅうねんすいがい)
 明治時代、山梨県はたびたび水害に見舞われているが、なかでも1907(明治40)年の水害は、災害の大きさで最もよく知られている。同年8月22日に始まり、26日まで降り続いた雨は、石和町の 480・をはじめとして、県内一円に記録的な雨量を示し、県内ほとんどの河川をはんらんさせて各地に多くの被害をもたらした。表面にあらわれた数字だけでも、死者 233人、破壊および流失家屋およそ1万 2,000戸、浸水家屋1万 5,000戸余り、流失した田畑宅地約 760・で、゛災後の甲州は最後の甲州゛といわれるほど、山梨県の多くの富を押し流した。水害後9月には内務大臣原敬をはじめ犬養毅など代議士一行が被害状況視察のため入峡、また被害地では郡民大会や県民大会を開いて、河川大改修陳情、荒廃した山林整理、被害者の救済など事後の対策や運動がおこされた。災害後の笛吹川の河流変更工事、被災者の北海道団体移住は有名である。さらに従来、山梨県におけるたび重なる水害に対する復旧工事が単に応急策にとどまっていたきらいがあるとの反省に基づき、治水論は治山論に発展して、やがて御料林還付の問題につながっていく。〔飯田 文弥〕

明治43年水害(めいじよんじゅうさんねんすいがい)
 1910(明治43)年8月初旬から降雨多く、8月10日に御岳で7カ所の崩壊が起きたことから下流の荒川、相川の決壊で甲府市内の住宅の3分の1が浸水するなど全県内で河川のはんらんなどの被害が出た。明治43年水害は、明治40年水害に比べて被害は軽かったが、明治40年水害の被災地で進められていた復旧工事に大打撃を与えたので明治40年水害からやっと立ち直りかけていた被災民には、この水害は大変厳しいものとして感じられたという。この水害で山林荒廃を放置しておくことが連年の水害を生むのだということが以前にも増して痛感され、同年8月22日に開かれた県民大会で御料林の還付要求が出され翌44年3月11日に県内入会御料林(恩賜林)の山梨県への還付が実現した。〔山本 多佳子〕

 明治40年の水害は被災者の北海道団体移住には驚くが、残念ながら、その後も再三にわたって大水害が発生し、人命、田畑などに甚大な被害を及ぼしている。

 昭和に入ってからは、34年8月台風9号、同年9月台風15号(伊勢湾台風)、41年9月台風26号による局地的な豪雨、57年8月台風10号、同年9月台風18号による被害、さらに、58年8月台風5号は、富士5湖周辺に異常な降雨をもたらし、増水被害、平成3年8月、9月にかけて台風12号、18号による豪雨で、富士5湖の水位が異常に上昇し、最大水位時には周辺道路面が10kmにわたって冠水した。

 山梨県は、昔から急峻な地勢と脆弱な地質との悪条件によって、一旦大雨が降ると出水は早く、水害が生じる。有史以来水害は宿命となっていた。(前掲書『山梨の河川』)その水害対応については、武田信玄公における釜無川の信玄堤、笛吹川の万力林、霞堤など築造、治水・利水を図ってきた歴史が続く。戦後もまた富士川水系では幾多の改修工事が施工されてきた。

 次に、山梨県における治水、利水に係わるダム開発を中心に年表で追ってみた。


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