14.印旛沼開発の事業
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千葉県の人口の推移を10年ごとにみると、昭和30年220.5万人(100%)、40年270.1万人(122.5%)、50年414.9万人(188.2%)、60年514.8万人(233.5%)、平成7年579.7万人(262.9%)、17年605.6万人(274.7%)と増加してきた。
前述のように浦安市から富津市に至る海岸線の埋立てによる工業団地造成地には川崎製鉄など多くの大企業が進出し、京葉工業地帯を創り出した。当然に生活や生産に欠かせない水もまた需要が増大し、千葉県内の中小河川と利根川に多くのダムや河口堰等が築造され、治水を図るとともに農業用水、水道用水、工業用水の供給がなされている。
現在、千葉県の水利用については、地下水17.8m3/S(9.0%)、千葉県内の河川56.30m3/S(28.5%)、利根川水系123.79m3/S(62.5%)、計197.89m3/Sとなっており、利根川に占める割合が多い。
また、用途別では、農業用水157.12m3/S(79.4%)、生活用水25.17m3/S(12.7%)、工業水15.60m3/S(7.9%)となっている。(「水のはなし」2007)
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さて、利根川水系からの利水が62.5%を占めているが、先ず印旛沼開発事業をみてみたい。
印旛沼はその昔は海であった。地球の寒冷化による海底現象が進み沼となり、縄文時代、沼周辺では稲作が始まった。江戸時代に利根川が銚子へ流れるようになり、手賀沼、印旛沼周辺の低湿地地帯は洪水被害が多発してきた。そのため治水と舟運をはかって印旛沼の開発が行われてきたが、なかなか成功しなかった。
水資源開発公団千葉用水総合事業所編・発行「印旛沼ものがたり」(平成14年)に、その開発史について次のように記されている。
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「印旛沼ものがたり」 |
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(1)享保9年(1724) 水害防止と新田開発のため、染谷源右衛門が幕府から資金を借り受け、平戸−検見川間の疎水路の開削工事に着手するが資金不足によって中止
(2)天明2年(1782) 浅間山の大噴火により、利根川の川底が高くなり、水害が頻発におこる。老中田沼意次が幕府の事業として平戸−検見川の疎水路開削工事に着手したが、天明6年の洪水によって施設が壊されたことと田沼の失脚により中止
(3)天保14年(1843) 老中水野忠邦は天保改革のひとつとして、5藩に命じ現在の新川、花見川の工事が行われたが、5ケ月後水野失脚により中止
(4)昭和16年(1941) 内務省は水害防止、新田開発、舟運のため、湖北〜船橋間の昭和放水路を計画し、着工したが、太平洋戦争により中止
(5)昭和21年(1946) 戦後の食料不足と失業対策として国営印旛沼手賀沼干拓事業とした農林省直轄事業に決定し、着工する
(6)昭和25年(1950) 昭和21年の計画が大きすぎるとして、水害対策、疎水路工事を中心に行う
(7)昭和27年(1952) 平戸干拓工事が完成
(8)昭和31年(1956) 印旛沼干拓土地改良事業が決定し、地元土地改良区の同意を得る 鹿島干拓工事が完成
(9)昭和35年(1960) 印旛沼排水機場が完成
(10)昭和38年(1963) 干拓と水害防止と利水事業のために、疎水路に大和田排水機場を設け、工業用水等の確保の計画がなされ、事業は農林省から水資源開発公団(現・独立行政法人水資源機構)に引き継がれた
(11)昭和39年(1964) 西部調整池堤防盛土工事に着工 捷水路工事の用地取得に関する覚書調印 国道14号線橋梁が竣工
(12)昭和40年(1965) 酒直水門建設及び中央干拓地域造成に伴う漁業補償協定書の締結
(13)昭和41年(1966) 大和田排水機場、酒直水門、酒直揚水機場が完成 高崎川捷水路工事用地取得に関する覚書調印
(14)昭和42年(1967) 京成電鉄成田線疎水路横断橋が竣工 中央干拓干陸開始 山田機場が完成
(15)昭和43年(1968) 北部調整池堤防が竣工 西部調整池堤防が竣工 疎水路掘削工事が竣工 京成電鉄千葉線疎水路横断橋梁が竣工
(16)昭和44年(1969) 水資源開発公団印旛沼開発事業の竣工式
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「印旛沼開発工事誌」 |
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この印旛沼開発事業の建設記録について、水資源開発公団印旛沼建設所編・発行「印旛沼開発工事誌」(昭和44年)がある。
事業は、干拓、水害防止、農業用水、水道用水、工業用水の供給とした5つの目的でもって施工された。
(1)干拓 W字型だった印旛沼の中央部を埋め立て西部調整池(西印旛沼)と北部調整池(北印旛沼)の二つに分け、両調整池を捷水路で結び、両調整池合わせて約1 310haの面積を持つ貯水池と約934haの干拓地を完成させ、食糧の増産を図った。
(2)水害防止 東京湾に結ぶ新川と花見川の分岐点に大和田排水機場、利根川に印旛排水機場、長門川に酒直水門と酒直揚水機場を設置するとともに調整池周辺に堤防を築き、大雨の洪水時における水害の減災を図った。
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(3)農業用水 印旛沼周辺には農業用の用排水機場を各所に設置し、船橋市、成田市、佐倉市、八千代市等の田畑6 300haに対し、最大19.12m3/Sの農業用水が送られている。
(4)水道用水 水道用水は最大2.07m3/Sが千葉県柏井浄水場に送られ、水需要に対応している。
(5)工業用水 JFEスチール、五井姉崎地区、千葉地区に対し、最大8.34m3/Sの工業用水が送られる。
次に、主なる印旛沼開発施設の諸元をみてみると、上流部(新川)疎水路延長9.4q、下流部(花見川)疎水路7.9q、印旛捷水路延長3.8q、西部調整池680ha、北部調整池630ha、堤防延長38.1q、干拓造成面積934ha、印旛排水機場2 800o×530〜560kw×6台で最大92m3/Sの排水可能、酒直揚水機場(工業用水機場)1 700o×225kw×2台と1 700o×275kw×1台で最大20m3/Sの揚水が可能、大和田排水機場3 600o×2 000kw×2台と2 500o×1 600ps×4台で最大120m3/Sの排水が可能、である。
補償関係は印旛沼疎水路、長門川捷水路等に要した用地取得面積442ha、印旛沼干拓に伴う漁場の縮少等による漁業補償、印旛疎水路掘削土等を利用して千葉市検見川、幕張、津田沼地先の海面を埋立てによる千葉市幕張地先海岸埋立て漁業補償、長門川簡易水道補償、それに、中央干拓地造成により、平賀渡船組合及び中川渡船組合が営業できなくなるための渡船営業補償であった。
なお、事業費は176.9億円を要し、その事業のアロケーションは干拓分61.5%、土地改良分14.8%、工業用水等分7.1%となっている。
では、実際にこれらの施設による印旛沼の水管理はどのように行われているのだろうか。 印旛沼の水位はかんがい期(5月〜8月)はY・P・2.50m、それ以外の非かんがい期(9月〜翌年4月)はY・P・2.30mを常時満水位と定めている。
印旛沼の水位が常時満水位を下回った場合は利根川の水を長門川を通じて、酒直揚水機場(最大20m3/S)から汲み上げ、また、降雨により水位が上回った場合は酒直水門から長門川に自然排水し、印旛水門から利根川へ流れ出る。このように印旛沼の水位は、酒直水門と酒直揚水機場の操作によって水管理が行われている。 しかし、平常時は穏やかな印旛沼は大雨が降ると歴史が証明するようにあばれ沼に変容する。そこで大雨によって利根川への自然排水が不可能だと予想される場合は、今後の降雨で状況や気象情報に基づき、次のような操作を行う。
利根川とつながる印旛水門(国土交通省管理施設)を閉め、利根川からの流入を防ぐとともに印旛排水機場(最大92m3/S)のポンプを運転し、利根川に排水する。さらに大和田排水機場(最大120m3/S)のポンプを運転し、花見川を通じて東京湾へ排出し、水害の防止を図っている。
このようにみてくると、ポンプによる排水機場が、印旛沼周辺の住民と財産を守る治水としての大きな役割を担っていることがよくわかる。
この工事誌の序文のなかで、印旛沼建設所長岩本道明は施工の苦労を述べている。
「大和田、酒直両機場等の根幹工事から農業用菅水路の付帯工事に至るまで完成に努めてきた。これらの工事はごく平凡なものであるが、施工区域が広く、地元の水利慣行、制度関係が複雑でその調整がむつかしく、かつ当地方特有のヘドロ層、化土層の軟弱地盤のため工事は難航することが多く、現場設計者、施工者は土との闘いの毎日であった」
今でも軟弱地盤との闘いは続いている。
印旛沼開発事業の完成によって、利根川の東遷以来、手賀沼、印旛沼周辺の低湿地帯は水位が減災されるようになり、また利水も図られ、水野忠邦らの幾多の先覚者の精魂がここに成就した。
現在、人々の暮らしと財産を守ってきた印旛排水機場、酒直揚水機場、大和田排水機場の3機場が建設以来35年以上経過し、老朽化が著しく、その改築のため、印旛沼開発施設緊急改築事業が平成13年度から20年度にかけて進められている。
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