[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]


◇ 1. 長崎県のようす

 長崎市を歩くと坂が多くどこへ登っても港が見えてくる。古くから東洋と西洋の文化交流の地であったことから異国情緒の溢れる街である。斎藤茂吉は長崎医学専門学校教授として、大正6年から大正10年渡欧留学へ旅立つ間、教鞭をとった。そして歌人茂吉は長崎の情景をいくつか詠んでいる。
 ・さむざむとしぐれ来にけり朝鮮に近き空よりしぐれ来ぬらむ
 ・朝あけて船より鳴れる太笛のこだまはながし並よろふ山
 ・長崎の港見下ろすこの岡に君も病めれば息づきのぼる

 さて、九州地方の北西部に位置する長崎県は、半島と島々からなり、複雑な海岸線が連なっている。半島や島となっているため、全体に山がちで平地が少なく、南東部には多良岳、雲仙岳などの火山があり、北東から南西の方向に壱岐、対馬、平戸、五島の島々が連なり、地形は変化に富んでおり、気候は対馬海峡の影響を受け温暖である。

 旺文社編・発行『日本の地理A九州地方』(平成2年)によると、長崎県は地形、産業、人口の分布によって、次のように四つの地域に分けられる。

1)県南地域

 長崎市を中心に、西彼杵半島からなる地域で県民の半分が住んでいる。長崎市は古くから港町として栄え、太平洋戦争では原爆の被害を受けたが、戦後は造船と観光の街として発展した。諌早市は工業団地の造成に伴い、長崎市の衛星都市の性格をもち、有明海干拓で生じた諌早平野は県下の最大の米どころである。大村市は多良岳の西山麓の扇状地にあり、畑作が中心ながら、最近では半導体工場、高度技術センターが進出する。

2)県北地域

 佐世保市を中心に北松浦半島、平戸諸島、東彼杵郡からなる地域で、江戸時代までは松浦藩の城下町平戸が中心であったが、明治以降は佐世保市に移った。
 佐世保市には鎮守府がおかれ、軍港の街として発展し、戦後は基地と造船の街に変わった。北松浦半島は多くの炭鉱があったが、全て閉山。この県北地域は九十九島、西海国立公園の景勝地が多く、観光が重要な役割を果たしている。

3)五島列島

 五島列島は、宇久、小値賀、中通、若松、奈留、福江などの島々からなる。いずれもリアス式海岸をなし、福江島を除くと耕地は少なく、人々は主に漁業で暮らしている。奈良尾港を基地とする大型巻網漁業、また若松島を中心にハマチ、タイの養殖がとり入れられた。また古くから芋づるを飼料とした五島牛が飼育されている。上五島町には世界初の洋上石油備蓄基地が誕生した。

4)壱岐、対島

 壱岐、対馬は古くから大陸交通の要衝地であった。壱岐は島全体が低く、平らな玄武岩の台地で、農業が発展し、北部の勝本は漁業が盛んである。
 対馬は、上対馬と下対馬と二つの島に分かれているが、島は山に囲まれ、平地はほとんどない。山林を利用したしいたけ栽培と漁業と真珠の養殖が盛んである。

◇ 2. 長崎県の地勢、地形

 長崎県の地勢、地形の特徴について、長崎地盤研究会/九州橋梁・構造工学研究会編『長崎県の災害史』(出島文庫・平成17年)に次のように論じている。

 長崎県は東シナ海に突き出た多くの半島と島々からなる。沿岸は大小の岬と入り江が交錯している。長崎県の海岸線の長さは4,137qに及び、北海道に次いで第2の長さである。このことにより971島を持つ日本一の島所有県となっている。

 県面積は4,112km2であるが、その45%が平戸、壱岐、対馬、五島などの島々で占められる。また、長崎県本土は離島地区とともに平坦地に乏しく、いたるところに山地や丘陵が起伏し、傾斜地が非常に多い。

 地形区分では、山地、火山地の面積は県全体の63.2%を占め、傾斜地15°以上の急傾斜地も51%にのぼり、極めて急峻で起伏に富んだ地形となっている。平地の規模はわずかに諌早、大村地区、東彼杵郡川棚、波佐見町、福江島中央部などに過ぎない。河川の長さは全般的に短く、県内で最も長い佐々川でもわずかに全長21.5qである。

 県土の土地利用区分ごとの面積比率は森林58.2%、農用地17%、宅地4.5%、道路3.3%、水面、河川、水路1.4%の順で、農用地のうち田と畑の比率は42:58で畑が多い。

 このようにみてくると、長崎県は平野や平地が少なく山がちであり、豪雨ともなればすぐに河川を流れ下って急激な増水をもたらし、水害を起こしやすい。急峻な斜面では崩壊や土石流を発生させる地形といえる。また、少雨傾向が続くと渇水がおこり易い。


[次ページ] [目次に戻る]
[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]