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◇ 1. 鬼怒川の流れ

 鬼怒川は、その源を栃木県塩谷郡栗山村鬼怒沼(標高2,040m)に発し、山峡を東へ流れ、栃木県日光市川治温泉地先において、男鹿川を合わせ南へ下る。今市市大桑で右支川の板穴川を、佐貫地先において日光中禅寺湖から発する左支川の大谷川をそれぞれ合流して、関東平野に入る。さらに鬼怒川は一路南へくだり、周辺沃野潤し、茨城県結城市に至り、田川を合わせ、水海道を経て、茨城県守谷市大木地先で、利根川と合流する。利根川水系の一大支川である。

 幹川流路延長176.7q、全流路延長859.8q、流域面積1,784.4km2、山地面積1,105.4km2、平地面積607.6km2、流域内人口約55万人である。

◇ 2. 鬼怒川流域の地形、雨量

 鬼怒川上流部は500m〜2,000mに及ぶ急峻な山々が連なり、針葉樹林におおわれ、ほとんどが国有林で、河床勾配は50分の1であり、黒部をすぎると、勾配は少し減じ80分の1となる。男鹿川中流部は屈曲が多く、勾配は120〜130分の1で両岸に岩盤があらわれている。

 鬼怒川は大谷川と合流するあたりから扇状地を流下し、中流域では河岸段丘が発達しており、茨城県筑西市川島付近より下流からは平野部を流れ利根川と合流する。

 降水量をみてみると、利根川流域の年平均降水量は1,300o程であるが、鬼怒川の年間降水量の地域分布では、源流部の山間部1,600o〜2,100o、平野部1,100o〜1,500oとかなりの差がある。源流部の山岳部は日本海と太平洋側の気候区分の境界に接しているので、北西の季節風や本州の南岸沿いを低気圧が通るため積雪となる。このため10p以上の積雪は山岳部で年間30日〜50日に及ぶ。

◇ 3. 鬼怒川と小貝川の分離

 かつて鬼怒川と小貝川は繋がっていた。徳川家康が江戸へ入府して以降、利根川の東遷事業が行われた。東京湾に流入していた利根川を、鬼怒川の下流に付替え、鬼怒川の流路を通じて銚子から太平洋に流下するようにした。そのため1608年(慶長3年)茨城県下妻付近で、さらに1624年(寛永元年)水海道付近で鬼怒川と小貝川と分離させ、鬼怒川を利根川の流路に合流させ、1630年(寛永7年)取手付近で小貝川の流路を付替え利根川と合流させた。

 このように鬼怒川と小貝川の分離事業は完了した。分離によって新田の開発が進み、舟運の発達に繋がったが、水害の減災までには効果が発揮できなかった。このことについては吉川勝秀編著『河川堤防学』(山海堂・平成19年)を参考とした。

◇ 4. 五十里湖の大災害

 江戸時代に、地震によって鬼怒川上流域に天然ダム五十里湖ができ、その湖が豪雨により決壊し、下流域に大被害をもたらしたことは今日までも伝承されている。

 このことについて、田畑茂清・水山高久・井上公夫著『天然ダムと災害』(古今書院・平成14年)では、宮村忠の論文を参考として次のようにのべている。

「1683年10月20日(天和3年)の日光・南会津地震(M6.8)によって鬼怒川上流、男鹿川右岸の葛老山標高1,123mが大規模な地すべり性崩壊、岩すべり(土塊量380万m3)を起こし、男鹿川を堰き止め、高さ70mの天然ダムを形成した。
 この天然ダム上流は、次第に水位を増し、約90日後堰き止め地点から約1.5q上流に位置する五十里集落が水没し、150日後には独鈷沢の石木戸地点(湖面標高600m〜620m)、湛水量6,400万m3まで達した。
 この天然ダムの堰き止め土砂は大部分が流紋岩質の巨大な岩塊であったため40年間も決壊することがなかった。40年後の1723年9月9日(享保8年)に、3日前の集中豪雨によって天然ダムは決壊した。このため大洪水が鬼怒川下流を襲い、50q離れた宇都宮市付近まで大きな被害が発生した。」

 江戸時代におけるこの天然ダム五十里湖の決壊大災害は、それから200年経た昭和初期、近代的なハイダム五十里ダム建設にかかわる技術者たちの調査、設計、施工業務に多大な影響を及ぼすこととなる。なお、五十里集落の名は、江戸日本橋から五十里の距離に位置していたからであったという。


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