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ある新聞の連載に「大河津分水で県令が下した判断」という掲載があった。その内容に疑問を持ったので筆者に問い合わせた。筆者から回答があったが、その回答にどうしても納得できない部分があり、私なりの意見を述べたい。
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1.大河津分水第一期工事は完成していたのか
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(記事) (分水路)工事は1873(明治6)年11月にほぼ完成した。 (問合) 分水路の山岳部の掘削は完全ではなく、ばけもの丁場も崩れたまま。「山岳部の掘削には数十万金必要で掘削は不充分だが、切り広げは洪水流を期待」 と高橋健三日記ある。(現場では、計画どおり河道は完成していないが洪水流で水路の拡幅を期待。しかし、河道が通水できる状態なので通水を試みる。個人的には非常に危険な河道になりかねないと思う)
(回答) 当初から完全無欠な計画はない。利根川東遷も初めから完全なものではなく、不都合をその都度対処し銚子へ切り替えた。 分水路は其の後何十年も放置されたことにより、スレーキングが堆積層に進行し、取返しのつかない状況になった。乾湿の繰り返しにはいろいろな対処法が考えられる。 |
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たしかに当初から完全無欠な計画はない。工事の途中で変更していくこともあることだと思う。それで利根川東遷は1621(元和7)年から1654(承応3)年までと33年かけて不具合を解消したと思う。しかし分水路一期工事は、資金不足で当初計画を無視して洪水流で河道を拡幅するという計画に変更している。このことから当初計画を無視して、変更設計図もない計画になったのだと思うし、「完成した」といい切るには無理があると思う。 また、スレーキングの問題は確かにある。では、第一期工事では法面対策を施工する計画になっていたのだろうか。洪水流で「ばけもの丁場」の土砂をフラッシュするという記述があるが、法面対策の記述はない。洪水流でフラッシュすることで「完成である」とした場合、何十年か先にスレーキングが堆積層に進行し、第二期工事で発生したと同じように地すべりが発生し、河道閉塞がおこった場合にはそれこそ取り返しのつかない状況になったと思う。
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2.分水路の呑口は丈夫なものだったのか
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(記事) 呑口が大河川で実績のある石積み構造で丈夫な物でできていたことを見て知っていた。 (問合) 平面図の呑口部分は、1730(享保15)年に新発田藩が阿賀野川に建設した松ヶ崎の悪水吐きと同様な構造にみえる。全国的に実績のある石組み構造かもしれないが、阿賀野川の洪水で破壊された構造と同じようであり、信濃川の洪水に耐える構造なのか疑問がある。丈夫なものと言い切れる構造なのか。
(回答) 石積み工法は、どんな洪水でも大丈夫ではない。洪水のたびに損壊が出ればその箇所を修復補強していく。
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明治初期の治水技術は、江戸時代同様の石と土と木(竹を含む)等で構成されたままで、ほとんど進んでいない。それは松ヶ崎の悪水吐きの呑口の構造や算法地方大成(1837(天保8)年)と比較すればわかる。 松ヶ崎の悪水吐きは新砂丘Vという砂地の上に作られ、分水路の開削個所の平地部は土砂地盤、山地部は凝灰岩を挟んだ泥岩と砂岩の互層との違いはあるが、大河川の洪水エネルギーは呑口部分を破壊すれば両岸を洗掘し河幅を広げ、復旧不可能になる場合もある。江戸幕府が大河津分水路建設の多くの請願をことごとく却下したのは、阿賀野川で許可した悪水吐きの復旧不可能になってしまった失敗も原因の一つと思う。
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(「阿賀野川流域パンフレット 阿賀野川の治水事業」阿賀野川河川事務所より)
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(信濃川河川事務所提供資料)
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3.楠本県令は誤った判断をしたのか
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(記事) 外国人技師が分水工事を中止するよう勧告。楠本県令は中止かどうか紛糾する県議会で中止をさっさと決めて政府に上申した。政府は1875年3月に工事の廃業を決定した。 (問合) 「県議会で中止をさっさと決めて政府に上申した」と書いてあるが、新潟県令は大河津分水路の中止できる立場だったのか。新潟県が県費を投入したとは考えづらいし、県に有能な技術者がいて大河津分水路工事で中心的役割を果たしたとも考えられない。つまり、新潟県は資金も人材も出していない大河津分水路工事に関して中止という意見を具申できる立場にはなかったかと思います。では、なぜ中止を決めて政府に上申したかですが、明治政府当時、殖産興業の旗の下、河川水運路の確保という政策を採用していました。明治5年にリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton)が、明治6年にリンド(L.A.Lindo)が提出した治水工事より舟運優先という考えの意見書を政府が採用し分水路工事の廃止を決め、県令は政府の判断に従ったものと考えられます。(工部省または内務省から県令へ指示があったかもしれません))
(回答) 県令は地元の代表として中止を具申できる立場であった。自己保身から中央の方針を忖度したと思われる。
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確かに県令は中止を具申できる立場にあったことは事実です。(私の考え違いでした)しかし住民の代表ということについては、いささか疑問がある。 県令は政府から指名されて着任しており、当然中央政府の意向を無視できない立場にあった。楠木正隆は渡辺悌輔騒動を処理できなかった松平県令に代わって、騒動による県内の動揺を治め、県の基盤を立て直すために県令として送り込まれたといわれている。 そのような楠木県令が政府よりの立場で強権的な政策推進をおこなうのは当然のことであり、川蒸気船創設、第四銀行設立、太陽暦の強制、西洋風施設や建築の奨励などを次々と実施していったのである。特に「散髪令」の強制や「公序風俗を乱す旧習」の取り締まりなどは明治政府が近代化のため全国的に実施していたものを強力に推し進めたのである。国の政策を強力に推進したことで内務卿大久保利通から「天下一の県令」と賞されている。 つまり、楠木県令は地元の代表として中止の具申や政府に忖度をしたのではなく、政府が分水路工事を廃止の考えであり、その考えに沿って新潟県令として中止の上申をしたと考えるべきだと思う。
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4.第一期工事で通水したら越後平野はどうなっていたか
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(記事) 記述なし (問合) 当時の分水路工事関係者にすれば、通水もせずに工事廃止することは無念であったと思いますが、あのまま通水していたら分水路下流の越後平野が現在のように発展したかは疑問のあるところです。
(回答) 越後平野が現在のように発展したかは疑問。・・これは何ともわからない。20数年の治水の歴史のブランクとその後の洪水被害がなかったと思われる。そのことが重要。
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第一期工事で通水した場合、呑口が破壊されて信濃川の流水は分水路に流れ込む可能性は大きかったと思う。これは、昭和2年の分水路自在堰の陥没の時に信濃川の水の大部分が分水路に流れ込み、本川下流部の水が枯渇したことでわかる。つまり、信濃川は寺泊が河口となり河川延長は約60km短くなり、越後平野は水不足のため現在のような広大な田んぼが広がる風景ではなく、畑作が行われる平野になったはずである。
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5.白山公園の楠本正隆の銅像
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(記事) この像は右手を顎に付けてうつむき加減で何か自信なさそうに悩んでいるような姿である。非常に珍しい銅像であり、製作者はきっと何かの意図があったと思われる。 (問合) 問い合せしなかった
(回答) 自己保身の引け目(県令自身、自分が下した判断は誤っていたかもとという悩みがあったのではないか)から俯き加減の不思議な銅像のデザインと説明文になったのではないだろうかと思われる。
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この像は1989(平成元)年に新潟市の手によって建立されたものである。なぜこのポーズを採用したのか建立した新潟市に聞くのが一番と思い市に問い合わせた。
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(市からの回答)昭和63年8月4日付の新潟日報によると、楠本正隆像のスタイル(頬に右手をやって考えている姿)は,銅像の製作者である高橋洋氏の考えによるものと思われますが、市には高橋氏の考えを記した資料が残っておらず、具体的な意図は分かりませんでした。
以下は,新潟日報の記事を参考に、銅像建立に至る経緯をまとめたものです。 <経緯> ・白山公園内の「楠本正隆像」は、新潟町の近代化に大きく貢献した楠本正隆の功績をたたえ、後世に伝えることを目的とし、平成元(1989)年に新潟市によって設置されました。 ・白山公園の改修工事の一貫として昭和63年7月から設置工事が行われ、平成元(1989)年3月25日に除幕式が行われました。 ・銅像製作者は、新潟市出身で愛知県立芸術大学助教授だった高橋洋氏でした。 ・最初の計画では、「銅像は等身大の立像とし、顔や姿は、新潟県令時代に最も近いものとする」と決まりました。 ・しかし、参考となるのは、憲政記念館にあった大村藩時代と新潟県令時代の複写古写真、衆議院議長時代の肖像画の複写写真だけであり、いずれも正面を向いた胸より上の図柄でした。 ・そこで、担当する公園緑地課職員が、全身像を復元するために必要な資料を求めて大村、国会図書館、東京都公文書館などに足を運びましたが、一級資料は発見できませんでした。 ・そこで、憲政記念館所蔵の写真と肖像画を高橋助教授の元へ送り、「作家のイメージ力にすがる」こととなりました。 以上のように製作者である高橋洋氏が新潟県令時代の楠木を想像して作り上げたもので、ポーズは高橋氏が考えたものである。残念ながらポーズの意図はわからなかった。個人的には悩んでいるというより、考えている(熟考をしている)という感じがする銅像であると思う。 楠木正隆像を久しぶりに見に白山公園へ行ってきた。なるほど言われてみればそういった見方もあるのかと考えさせられた。また、「髭の生えた端正な顔とポーズがよく決まっています。」という感想をもつ人もいることを申し添えておく。
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白山公園の楠本正隆の銅像 |
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(2018年8月作成)
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