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《調印式の日》

 1998年1月24日。その日は珍しく大雪に見舞われた。立会人の平松知事が大分から来られるだろうかというスタッフの心配を後目に、水没者の表情は実に晴れ晴れとしていた。念願であった損失補償基準の調印式を迎えたからである。この間、水没者の揺らぐ気持ちを引き締め、交渉に当たってきた組織の会長は、初代の岩里六郎氏、二代目の川辺宰氏とも志半ばにして病に倒れ還らぬ人となった。調印式で挨拶する鶴野安之会長もこのことにふれるとき、無念さに絶句し目に涙が光った。

 一方、ダム建設を進める町側も伊藤隆町長、矢幡欣治町長そして私と懸案事項を引き継いできた。補償交渉について組織の一本化を断行し調印にこぎつけた私は、調印式の席上でその心境を歌に託した。

 「進む世に吾も何かせむこの山峡に生まれて60年暁をのぞむ」

《大山町というところ》

 大分県日田郡大山町。大分県の西部に位置し、かって「ウメ・クリ植えてハワイへ行こう」のキャッチフレーズで産地デビューした町である。

 町は標高100mから500mの間に位置し、平地は少なく町の4分の3は山林で覆われウメ、クリ、すもも、ブドウ、梨などの果樹園が残りの半分を占める美しい山あいの町である。

 米を作らなければ農家だと認められない時代、水田をつぶして果樹を植栽したドラスチックな運動は、時の流れの中で地域づくりのモデルとまで言われ、平松大分県知事が提唱した「一村一品運動」の原点ともなった。




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