《町におけるダム建設の歴史》
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町の中央を筑後川が流れ、豊かな山林資源の搬出路として機能していた。しかし、豊かな川は時として暴れ川に変身し、昭和28年には流域で147人の死者と54万人の被災者を出すという大水害をひきおこした。これを契機に治水計画が見直され、建設されたのが松原(大山町)・下筌ダムである。
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あばれ川・「大山川」、流域で147人が死亡した大水害 |
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松原ダム |
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特にこのダムは地権者と国家権力との闘いを通じて、ダムという国土利用計画のあり方を根本から見直すきっかけとなった。その影響は「法にかない、理にかない、情にかなう」という教訓を残しただけでなく、「水資源特別対策措置法」の制定など、今日の水源地域活性化の基礎を作った。 前述の「ウメ・クリ運動」も松原・下筌ダム建設による経済的な支援によるところが大きかった。
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《それでも過疎は進んだ》
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「陽もあたらん。農地も無え。道路も大型は入ってこん。こんな集落にゃこどもは残らんばい。」 「農林業以外は働く場も無えし、俺たちの世代まで生活できりゃいいち思わにゃ。」 「こどもたちの残ってくれるような夢のある地区にならんとじゃろうか。」
数にして20人もいただろうか。東川内瀬古地区での座談会は悲壮感漂うものであった。今から25年前のことである。 大山町は昭和40年代、地域整備を推進する開発対象を従来の36の行政区から8つの地域に改めた。確かに8つの地域を比較してみると東川内を含む西峰地域は道路整備をはじめとして社会基盤の整備は最も遅れていたし、農業、林業などの産業基盤も負担遅れが目立っていた。
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赤石川沿いの谷間という劣悪な地理的条件や、こうした風土が育んだ消極的で悲観的な地域特有の住民気質が、地域の過疎化に拍車をかけていた。
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