[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]


《ダムを造らせて欲しい》

 町長に就任して初めてのお正月(昭和54年1月)、伊藤町長は国土交通省の出先事務所に新年の挨拶に伺った。その事務所で「赤石川に治水、利水を目的としたダム構想がある。」と告げられた。伊藤町長は先の松原ダム建設で対策協議会の副委員長を務め、水没者の生活再建や地域振興に携わった経験があった。それだけに、受け入れ側にしっかりとした思想と戦略があれば、国の事業を取り込むことによるメリットを誰よりも感じていた。企業の社長をしていただけに決断は早かった。そして動いた。
  「町としてはダムを造るのが目的ではありません。皆さんの地域が良くなるための手法として国の事業を取り入れるのです。自然は大事です。しかし、皆さんの日々の生活はそれ以上に大事ではありませんか。ゆたかになりましょう。」 町長はこの日から「地域振興なくしてダム建設はありえない。」という十字架を背負うことになった。あの正月の挨拶から10ヶ月が経過していた。

 トップのダム建設に対する基本的な考え方に流域住民の気持ちが揺らいだ。そして、「赤石川水資源対策委員会」設置という形で応えた。ダム建設へ向けてのGOサインであり、ポスト「ウメ・クリ運動」へのスタートでもあった。


《台風が教えてくれた森林の大切さ》

当時、伊藤町長の頭の中には「地域再建と」「地域創造」という二つの思いがあった。一つは水没地域住民の生活水準を向上させ、町内外の人があこがれるような魅力ある地域づくりを行うことだった。そして二つ目は、大山町の新たな町づくりを先導する意味での地域モデルをつくることとし、その戦略をダム受益者との交流や融合、補完といった関係作りに求めた。

 しかし、ダム建設という長丁場の仕事は一人の町長の任期で終わることは許されない。大山ダムも2人の新しい町長に受け継がれた。最初に受け継いだ矢幡町長は周辺地域を含めると被害面積6,208ha、木の本数にして2,000万本の被害を受けた台風17号、19号の対策に奔走した。

 杉の木を根こそぎはぎ取られ、檜を真っ二つにへし折った山の惨状とはうらはらに、ケヤキや山桜、クヌギが山にしっかり根を張っていることに、関係者の多くは「もし、山が杉の一斉林でなかったら・・・・」と唇をかみしめた。

 矢幡町長は「水を創り出すのは山林だ。ダムのユーザーに呼びかけしっかりした山を創ろう。百年は伐採しない照葉樹や広葉樹の森を創ろう。そのことによって大山の人達の森林観を変えたい。」と決意した。幸いに、ダムの左岸側にはダム建設による捨て土場所が予定されていることから、その周辺10haを7年間かけて新しい森づくりのモデルとする事業に着手した。
 既に森づくり(植栽)は都市住民のボランティア活動で完成し、土捨て場空間には「観・創・遊・学」のテーマからなる森づくし公園が計画されている。



[前ページ] [次ページ] [目次に戻る]
[テーマページ目次] [ダム便覧] [Home]