《このごろ》
「パッテンライ!」再び

→ 「このごろ」一覧   → 「このごろ」目次
 
 以前に、日本統治時代の台湾で烏山頭ダムを建設した八田與一を描いたアニメ映画「パッテンライ」について書いた。昨晩、「パッテンライ!」に因んで、土木学会で対談があった。

第24回 土木学会トークサロン 
パッテンライ! 土木技術者・八田與一の本懐とは何か 〜社会に土木の価値と役割を伝えたい〜
講師 : 古川勝三(「台湾を愛した日本人」著者)× 緒方英樹(「パッテンライ!」企画者)


 古川さんは、「台湾を愛した日本人」著者。いわば八田與一を発掘した人。「パッテンライ!」の企画者・緒方さんが、もっぱら聞き役で、古川さんが熱心に語る。そんな展開だった。

 これは、その雰囲気をを元にまとめたものです。多分につまみ食い的でもあり、舌足らずでもあり、不正確でもあり・・・ということで、不都合な点が多々あるでしょうが、ご容赦頂きたいと思います。


【台湾に行こうと思ったわけではないが】

緒方:
古川さんは、1989年に出版され、八田與一を世に知らしめた「台湾を愛した日本人」の著者です。私が「パッテライ!」を企画したとき、この本は探しても古い本で1冊もなかった。この4月、改訂版が出たが、やっと出たという感じ。その記念の意味も込めて、質問をしたい。

 私が初めて古川さんを知ったのは、2000年に、「土木の絵本」を作っていて、金沢の中川外司さんに話を聞いたときのこと。四国に古川さんという人がいると。中学校の先生をしていた。赤いジープに乗って、先生とはとても見えない。懐の深い人だと思った。退職して、昨年はヨットで日本一周をしたという。

古川:中学の教員を37年、専門学校を2年、教育で生きてきた。ヨットが好きで、ヨットで世界一周をと思った。親と大げんか。それでも何とかして海外に行きたいと思い、日本人学校の教師にと、文部省の試験を受けたら、合格。

 どこにしようか。戦時中に日本人がアジアで悪いことをしたと言うことが、戦後の教育で広まってしまっていたので、家族を連れてアジアに行くのは避けたいと、ナイロビの希望を出したが、結果は台湾だった。そのときは最悪だと思ったが、今は良かったと思っている。

 それで、台湾の高雄に行くことになった。台北と違って、内省人が多く、日本人びいきが多い土地柄だった。


左:緒方英樹さん  右:古川勝三さん


【よっぽどすごいことをしたのだ】

緒方:
1980年から3年間、高雄の日本人学校に勤務されましたね。

古川:3月に小学校の卒業式があった。そこで、交流協会の所長が、来賓で、八田與一の話をした。烏山頭ダムを造り、銅像が立ったという話だった。日本人学校のクラスの生徒に聞いたら、みんな知らないと。

 その後、たまたまある湖に行ったとき、土手があって、自然の湖とは違う。ただ、土手に草が生えていて、ダムにも見えない、そんな風に思ったが、銅像があり、墓があったのでびっくり。烏山頭ダムだった。

 日本人学校の子供達は台湾のことを知らない。一方で、台湾人は戦時中支配者側だった日本人の墓を建てている。この人はどういう人なのか。よっぽどすごいことをしたのだと。

 それで、知りたくなった。


【調べるのに苦労した】

古川:
ところが、当時、調べようにも資料がない。それで、日曜になると、河南農田水利会に行った。
 苦労して調べ、調べたことを高雄の日本人会報に毎回載せた。

 当時、大洋丸会というのがあった。八田與一は大洋丸に載っていて、沈没したためなくなったが、その関係者が慰霊会を開くという記事が朝日新聞に載った。電話番号があったので、電話をして、遺族の名簿を手に入れた。その名簿に、八田與一の息子さんが載っていた。息子さんは、八田與一がなくなったときには東大の土木の学生だったが、小さい頃過ごした台湾のことはよく覚えていた。

 古本屋回りもした。日本統治時代の本を集めた。日本円で200万ぐらいは買った。当時としては大金だが、できるだけ正確な資料を残したいと思った。

 ダムの素人なので、ダムのことについて勉強するのも大変だった。だが、おかげで今では、人に説明してあげられるくらいにはなった。


【子供達に教えるべきだ】

緒方:
新聞報道がありますが、来年11月を目指して当時八田與一が住んでいた宿舎を復元するとのこと。また、朝日の記事に、馬英九総統の発言がある。

古川:日本人会報誌に八田與一のことを載せたときに、腹が立った。こんなすごいことをした日本人がいたのに、日本人は何も知らない。何で日本人は知らないのかと。日本人は、戦争で悪いことばかりしてきたと教えられたが、何でこんないいことをしてきたということを教えなかったのかと。

 当時、台湾の人たちが開いていた八田の追悼式に出たが、日本人が初めて出てくれたと感謝された。素朴ないい追悼式だった。追悼式は今でも続いているが、昨年行ったら、もう政治ショーだ。地元の人もそういっていた。

 戦前に日本人はすばらしいことをたくさんした。鴨緑江の水豊ダムや旧満州の豊満ダムもその例だ。光の部分も子供達に教えるべきだ。陰の部分を教えるべきではないとは言わないが。

 日本に帰るときになって、会報誌の連載で終わらせずに、まとめて一冊の本にして出せといわれた。ところが、台湾の出版社なので、日本語も分からない。苦労した。帰国の2〜3週間前だったろうか、やっと700部できあがった。


【出身地金沢では活発な動き】

古川:
金沢の中川外司さんは、四高で、先輩の中にすごい人がいたことは知っていたが、何をした人かは知らなかったようだ。本を1冊ほしいと言われたが、手元にもうなくなっていたので、コピーをやった。中川さんは20年間、毎年台湾に行かれている。「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の事務局長だ。
八田與一は、「金沢ふるさと偉人館」に土木偉人としてまつられている。こんなことは他にはないのではないか。

 私の本が池に波紋を起こした。それで、偉人になり、演劇になり、アニメになった。八田與一の他にも偉大な土木技師がたくさんいるはず。彼らがもっと知られるようになってほしいと思う。


【農民ありき、そして公につくすという精神】

緒方:
八田與一は、お山の大将とか、大風呂敷とか、東大出のエリートとか、悪いイメージで言われることもあるが、台湾で民衆に出会い何かが変わったのではないでしょうか。

古川:嘉南大しゅうの設計が32才の時、工事が始まったのが34才。どこに目線を置いたかと言えば、それは農民。台湾の人を差別しない。最初にダムありきではない。農民ありきだった。これは、生まれた環境によるのではないか。金沢は浄土真宗の盛んな土地柄。子供時代の環境が影響したのだろう。

 廣井勇の影響も大きかった。札幌農学校で育った人々、彼らには、公につくすという精神がある。今の日本人には少なくなっているが、そういう意識があった。教育の影響は非常に大きいと思う。


古川勝三さん


【土木について教育がない】

古川:
土木というと、談合とか、悪い面がすぐ言われる。残念なことだ。
 土木について教育がない。今は蛇口をひねると水が出る。昔は違った。今はそれが当たり前になってしまって、そのためにいかに大変だったかを誰も教えない。報道もマイナーなことばかり。もっと重要なことを発信してほしい。八田さんの場合、北国新聞が必ず書く。
 日本は災害国家だから、インフラの整備が大事だ。それが理解されていないのが残念だ。

[関連ダム] Wushantou[烏山頭ダム]
(2009.9.8、Jny)
ご意見、ご感想などがございましたら、 までお願いします。