JR宇都宮線・東武鉄道日光線の栗橋駅に近い閑静な住宅街で青いテープが巻かれた電柱を時々みかけます。このブロック塀手前にある電柱の青色テープは、かつてカスリーン台風(キャサリン台風)に襲われたときの実際の洪水の高さを示しているそうです。そのテープの位置は塀の高さの軽く2倍はあると思われます。
カスリーン台風による洪水の水位(青色テープ)
洪水時避難場所の案内 この高さまで水が押し寄せてきた場合、普通の人間は何もすることができません。ただし、今後カスリーン台風級の降水量があっても、ここまで洪水が来るような事態は起こらないとないと考えられます。それは、当時とは状況が異なり上流に建設されたダム群がこの地域を守っているからです。
1.渡良瀬川
現在は、利根川の一支流となっている渡良瀬川は、かつては東京湾に直接河口をもつ河川でした。江戸幕府による利根川の東遷事業のため渡良瀬川は分断され、上半分は利根川の支流に、下半分は現在の江戸川となりました。
渡良瀬遊水地と男体山 利根川水系河川の水位の基準にはY.P.(Yedogawa Peil:江戸川工事基準面)が用いられますが、Yは江戸川(ヱドガワ)の頭文字ということになります。
渡良瀬遊水地第1排水門
第1排水門のプレート 渡良瀬川と利根川の合流点付近には、明治時代から渡良瀬遊水地が存在していました。しかし、カスリーン台風ではこの遊水地の堤防が耐え切れず甚大な被害をもたらしました。
渡良瀬遊水地の決壊口跡 渡良瀬川河川事務所の資料によると、この台風で栃木県内だけでも堤防の決壊が235ヶ所に及んだということです。至るところで川から水があふれ出し、もはや手の施しようがない状態となりました。
栃木県足利市の状況(カスリーン公園記念碑より) 昭和52年、渡良瀬川上流部に草木ダムが完成し、同時に河川整備も進みました。その後このような大規模災害は発生しておりません。
草木ダム(撮影:ばっきい)
2.利根川上流部のダム群
カスリーン台風から約10年後の昭和33年、ようやく藤原ダムが完成しました。さらに利根川最上流部には矢木沢ダムが建設されました。また、支流には、相俣ダム、園原ダム、下久保ダム、奈良俣ダムが次々と建設されて行きました。首都東京が繁栄している背景には、尊い犠牲と土地を提供された多くの方々の苦労があったという事実を忘れるべきではありません。
開通前の八ッ場大橋(湖面1号橋) そして、カスリーン台風の襲来から68年目を迎える本年1月、支流の一つである吾妻川において八ッ場ダムの本体工事が着工されました。
丸岩大橋(湖面3号橋) 上流にダムがなかった昭和22年9月、カスリーン台風によって増水した利根川は、埼玉県東村(現在の埼玉県加須市)付近で堤防を決壊させました。当時の決壊口跡は、現在「カスリーン公園」として整備され、未曾有の惨状を後世に伝えています。
カスリーン公園
3.カスリーン台風
このように、関東地方に大きな水害をもたらしたカスリーン台風とはどのようなものであったのでしょうか。
カスリーン台風の進路(カスリーン公園記念碑より) この台風は、房総半島をかすめるように通過し本土には上陸しておりません。カスリーン公園にある記念碑の『カスリーン台風の概要』には次のように記載されています。
カスリーン台風の概要 昭和22年9月8日、南方洋上に発生したカスリーン台風はしだいに本州へと接近し、9月15日に房総半島南端を通過し関東・東北地方に多くの被害をもたらした。 カスリーン台風発生時、日本列島には秋雨前線が停滞していたため全国的に雨のところが多く、関東地方でもカスリーン台風が去るまでの間、熊谷で約338mm、秩父では約610mmという記録的な豪雨となった。 このため、カスリーン台風は未曾有の大洪水となり、特に利根川上流域赤城山を中心とする山地一帯は土砂流出がおびただしく、甚大な被害を受けた。 また、各河川で氾濫が起こり、利根川本川でも埼玉県東村(現大利根村)と茨城県中川村(現岩井市)で決壊し、特に東村の決壊による氾濫流は埼玉県県下にとどまらず、東京都葛飾区、江戸川区にまで到達し、東京湾へと流れた。 カスリーン台風による被害は関東地方で家屋の浸水約303,160棟、家屋の倒壊・半壊約31,381棟、死者については1,132人を超えた。
※なお、町村合併により、上記文中「現大利根村」は埼玉県加須市、「現岩井市」は茨城県坂東市となりました。
カスリーン台風は、「台風+停滞前線」という典型的な雨台風でした。この豪雨によって増水した河川は、利根川の堤防を破壊しました。これによる被害は上掲概要に記録されている通りです。太平洋戦争の惨禍を何とか生きながらえたにもかかわらず、この大洪水で貴重な命を失った人が1,000人以上にも上ったのです。
1都5県の浸水被害(カスリーン公園記念碑より) 河川構造物の束縛から解放され自由の身となった濁流は、土地の起伏にしたがって東京湾方面に流下しました。その流路はかつての渡良瀬川下流部に沿うもので、洪水は東京都内まで至りました。もとより渡良瀬川に罪はなく、一時的に地形通り、かつての自然な流れを取り戻したにすぎません。しかし、江戸川一帯は水浸しとなり、東京都内だけで88,430戸もの家屋(床上72,945戸・床下15,485戸)が浸水被害を受けました。関東地方で被害を受けた戸数のうち東京都内の占める割合が約3割となっているのは、江戸川沿いが住宅密集地であったからです。この事情は現在でも変わっていません。
東京都葛飾区亀有付近の状況(カスリーン公園記念碑より) カスリーン公園にある決壊口跡碑裏面には、過去にも度々水害があったにも関わらず、戦争を理由に治水を怠ったことが、このような被害を招いた原因であるとしたうえで、「この国土に住む限り、治水を疎かにしてはならない」と刻まれています。
カスリーン公園の利根川決壊口跡 関東平野は、利根川を始めとする大小河川の堆積作用で形成されたものです。カスリーン台風をはるかに上回る台風が発生しないとは、誰も断言できません。そこに住む人々は、八ッ場ダムが完成したとしても、それで安心することなく常に防災の意識は持ち続けなければなりません。
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