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ダム造りのプロが読む、三島由紀夫「沈める瀧」

                              舘 眞人(佐藤工業株式会社)
 平成16年3月から「月刊ダム日本」に連載されている“ダムの書誌あれこれ”で古賀邦雄氏(水、河川、湖沼関係文献研究会)は、ダム関する小説について、@ダム水没者の苦悩とその心情を描いた作品、Aダム建設に挑む技術者たちの人間隧性を追求した作品、Bダム建設に真正面から対峙した作品、Cダム建設そのものを社会的、政治的な面から捉え、批判した作品、Dダムそのものがテーマでなく、ダム技術者と女性との愛を描いた作品、に分類して紹介している。
 30余年もダム事業に関わってきた自分でも、新入社員だった頃木本正次著「黒部の太陽」や吉村昭著「高熱隧道」くらいは読んで土木の世界を知ったつもりでいたようであったが、ダム事業の内幕までつぶさに描いた素晴らしい作品が他にも沢山あることを知り、赤面している。

 昨今のダム事業に向けられる逆風は、ダムの本質的機能から乖離し、環境破壊やコスト面ばかりを強調し、保全、再生への活動に眼を瞑り、将来的国土保全の方向性さえも誤らせかねないヒステリックさを感じさせる。こんな時代風潮のときにこそ、一般の人々にこれらの作品に触れ冷静な判断をして欲しいと思うのが、私のような”ダム屋”の願いであるが(プロジェクトXでは大規模工事のドキュメンタリーは人気が高いのではあるが)、これらの本を人に推薦して読んでもらうとなると何となく抵抗を感じるのもまた”ダム屋”ではないだろうか。何故なら、ダムを造ることには寝食を忘れるほどに情熱を傾け完成のための役割を全とうしようと精一杯努力をするが、@、C分類の作品に描かれている事業の巨大さが内包している社会的影響の大きさについては、効用に関すること以外は事業者の問題として、技術者としては無関心を装わざるを得ないからではないだろうかと思う。特に水没者の問題となると立場上どう発言して良いのか皆目検討もつかないのが本音ではなかろうか。

   ◇

 Dで紹介された1冊、三島由紀夫著の「沈める瀧」を読み返してみた。
 まだ若く現場の最前線にいた頃の読後感は恋愛に関するストーリだけのようで、実経験のない著者ほどにも工事に対する臨場感は読み取っていなかった。停年も近くなり4ヶ所のダム工事現場を経験してきた今読み返してみると、不思議なことにストーリーよりも断片的に描写される奥深い自然の様子や、ダム技術者の創造に対する取り組みの様子が印象深く、強く心に残った。

 戦前、戦後まもなくの頃のダムは、黒部ダムに象徴されるような人跡未踏、深山幽谷の地に多く建設された。そのため工事は巨大な自然に立ち向かう不屈の人間ドラマとして美化され、男のロマンとして人々の共感を呼んだ映画「黒部の太陽」はまさにこの代表作で我々ダム技術者が観ても血の高鳴りを覚える(プロジェクトXの人気もこの辺にあるのではないか)。


 著者三島由紀夫は、ダムの背景となる駒ケ岳の孤高を

“地上にただ基底を託して、半ば天界に属していた”
“それは一つの不動の思想であった”
“美しいのは、少なくとも俺に美しく思われるのは、超絶的な自然だけだ”

と書いている。
 作者の巧みな表現を差し引いても、これに近い感動をダム技術者なら誰しも知っているのではないだろうか。そして、

“この自分の効用をまったく意識しない自然を、土木技術者は盲目的にダムに惚れて人間にとって有効な質料に変貌させるのである”

と書いている。
 正しくその通りだったような気がするのは自分だけだろうか。思い起こせば、社会的に有益な”物”を建設しているのだと盲目的に信じていたように思える。小説ではさらに結論的に、

“ダム建設の技術は、自然と人間との戦いであると共に対話でもあり、自然の未知の効用を掘り出すためにおのれの未知の人間的能力を自覚する一種の自己発見でなければならなかった”

と言っている。
 小説の結末は、ダムはこの”物”の象徴として人間的な事を一切拒絶した”物”として描かれている。

“百五十米の高堰堤は、工事に携わらない人の心にも、当然の威圧感と一諸に、一種の解放感を与えずには措かなかった。”

と表現し、ダムはやがて湛水し、小説の2人の主人公の人間的営みである恋愛の象徴であった“小瀧”を沈め、人間的感情をいとも簡単に埋没させてしまう。巨大な人工湖の出現が新たな人間の営みを創出し、過去を消しゴムで消しさったように簡単に飲み込んで小説は終わる。

   ◇

 三島は別の短編集「鍵のかかる部屋」のなかの1編「山の魂」で、人間の潜在的にもつ欲望を飲み込んだダム湖に関わる話を書いている。大正から昭和にかけて建設された富山県庄川の小牧ダムである。複数の作家が作品を発表している≪庄川流木事件≫を背景に、ダム上流に欅の伐採林を持つ木こり達の生活補償に関わる問題を巧みに商売として利用した人間の金銭欲を赤裸々に描いてる。当時の実体は分からなくても、今でも何となく理解できる現実的な問題であると思う。

 私もそうであるが、ダム技術者をダム屋と呼ぶことがある。我々ダム工事の建設現場に何年も携わってきた仲間内で話す表現で、商売人のような響きがあるが、一芸に秀でた職人であると思う自負心も含まれるているように感じている。創造に拘る技術者の魂について、これから暇に任せて第三者の立場で考えてみようと思う。

 蛇足ながら付け加えると、ここに書いた3ヶ所のダムについては個人的にも関わりの深い所だった。
 黒部ダムは、その下流にある仙人谷ダムに勤務していたことがあり、長野県側の大町ルートを抜け現場へ向かう途中、その巨大ではあるが幾何学的な姿の素晴らしさに感動した。映画の監督をした熊井啓氏は高校の先輩ということもあって、故郷松本へ帰った折にこの映画を早速観に行った記憶がる。
 瀧を沈めた「銀山湖」へは、水系は違うが近くの新潟県栃尾市で刈谷田川ダムに勤務していたことがあり、ダムの大きさを見に何度か訪れた。
 小牧ダムは庄川の中流域にあり、いまで秘湯と宣伝されるようになった大牧温泉がダム湖の最上流にある。富山県と岐阜県の境界にある境川ダムに勤務していた頃の通勤路の途中にあり、温泉に向かう遊覧船がのどかな影を映していた。
 こういった関わりを踏まえてそれらの作品を読むと、臨場感が増してより身近に主人公を感じることができる。”ダム屋”の特権かもしれない。

(2004年9月作成)
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