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 平成15年は、昭和28年6月に起こった筑後川大水害から50年にあたる。筑後川の水害を防ぐために建設省(現国土交通省)は、昭和48年に松原・下筌ダムを完成させ、30年を迎えた。この30周年を記念して、11月10日大分県大山町にて式典が行われ、翌日の大分合同新聞には「恩恵に感謝30年を祝う」の見出しで次のように報じている。

『筑後川上流の松原、下筌ダムが建設され、管理・運用が始まってことしで30年を迎えた。10日、大山町など関係五町村と国、地元の関係者約三百人が出席し、大山町文化センターで記念式典があった。実行委員長の三苫善八郎大山町長が「ダムが果たしてきた治水・利水に感謝したい。地域の活性化に向け、五町村だけでなく、上下流が一体となって息の長い交流のきずなを編み上げたい」と式辞。国土交通省九州地方整備局の渡辺茂樹局長があいさつした。
 筑後川ダム統合管理事務所の石丸昭久所長が30年のあゆみを紹介。ダム建設時の工事事務所長(1965-70年)の副島健さんが記念講演し、「蜂の巣城」で知られる建設反対運動のリーダー、室原知幸さんの思い出について話した。
 式典に先立って、三苫大山町長と室原さんの息子、基樹さん(日田市議会議員)ら関係者八人が松原ダム直下の公園にイチョウ2本を植樹し、30周年を祝った。
 松原、下筌両ダムは53(昭和28)年の筑後川大水害を受けて建設計画が持ち上がった。58年に実施計画の調査が始まるとともに、地元で反対運動が起きた。建設と並行約13年間にわたる反対運動が続き、73年に完成した。
 室原さんの反対運動は、公共工事の進め方に大きな影響を与え、水源地域の暮らしや文化をどう守り、どう地域を振興していくかなどに教訓を残した。出席した人たちは治水・利水のダムの恩恵に感謝しながらも、地域への思いの強かった室原さんをしのんだ。』

<水源は 阿蘇の小国よ 川挽夏>   〔永江きよえ〕
と詠まれる筑後川は、熊本県阿蘇郡南小国町に発する杖立川の流れが、酒呑童子山を水源とする津江川と合流し、大山川となり、一方九重山群から集まった流水は、鳴子川、玖珠川と流れ、大山川と盆地を形成する大分県日田市で合流する。日田市を過ぎると肥沃な筑後平野を貫流しながら、やがて福岡県久留米市、佐賀県北茂安町を過ぎ、河口近くの大中島から早津江川を分流し、著しい潮汐で有名な有明海へ注ぐ九州第一の河川で、流路143q、流域面積2,860km2である。

 明治20年から、筑後川第一期改修工事が始まり、デ・レーケの導流堤が完成したが、明治以降水害は度々起こっている。とくに、明治22年7月、大正10年6月、昭和28年6月といずれも梅雨末期に筑後川の堤防が決壊した。これらの水害を筑後川三大水害と呼ぶ。
 明治22年の7月の水害は、筑後川中下流域に、死者52名、湛水戸数2万5,518戸,建物流失1,263戸、堤防決壊2,841カ所(48q)、井堰破損1,546カ所の被害を及ぼした。水害によって,いままでの生活基盤を根底から奪われ、人生が一変してしまった人々がいた。
 古賀勝の『大河を遡る − 九重高原開拓史』(西日本新聞社・平成12年)に、この物語は明治22年の筑後川の大水害から始まる、とある。水害で田畑のすべてを失った貧苦の筑後農民は、明治27年の春、元久留米藩士青木牛之助に率いられ、27人がリヤカーを押しながら筑後川、玖珠川を遡って、大分県の「千町無田」に入村する。日清戦争が始まったときである。九重連山の麓、飯田高原の東北部に位置する不毛の湿地地帯「千町無田」の開拓をはかり、美田にかえていった。いまみる干町無田の美しい田園風景は、このような明治人の悲壮なる労働によって刻まれた歴史がひそんでいる。明治29年河川法が制定され、筑後川第二期改修工事が始まっている。

 大正10年6月の水害は、山間部の大山川流域に降雨量641.1oの豪雨となり、山崩れ、山津波が起こった。日本写真工業兜メ・発行『大正10年6月大洪水惨害状況記念帖』(大正10年)には、大山、日田地方の惨状を写し出している。大正12年から筑後川第三期改修工事が始まり、下流の長門石、江口、下野、大中島、道海島などの河川掘削が行われた。

 昭和28年6月の大水害は、26カ所の堤防が決壊し、死者147名、6万7,000haの田畑の冠水、流失家屋4,400戸、損害額450億円の大災害となり、多くの人命と財産が失われた。筑後川以外でも遠賀川、白川、緑川なども水害に遭い、ようやく戦後復興へ向けて動き出した頃で、北部九州の経済には大きな痛手となった。
 この水害については、福岡県編・発行『福岡県水害誌』(昭和28年)、同『西日本豪雨水害写真集』(昭和28年)、浮羽郡町村長会編・発行『昭和28年浮羽郡水害誌』(昭和29年)、科学技術庁資源局編・発行『水害地形と水害型』(昭和32年),建設省九州地方建設局編・発行『昭和28年6月末の豪雨による北九州直轄5河川の水害報告』(昭和29年)、福岡県・大分県編・発行『昭和28年6月下旬に関する夜明ダム調査報告書』(昭和29年)、日田時報社編・発行『日田水害誌』(昭和30年)、北里記念会館編・発行『北里大水害』(平成3年)が刊行されている。

 昭和32年建設省は、大水害を防ぐために筑後川水系治水基本計画を策定した。この基本計画は洪水調節計画と河川改修計画からなる。基準地点長谷(大分県日田市)における基本高水流量を8,500m3/sとして、上流ダムで2,500m3/sを調節して、河道配分流量を6 000m3/sにするものである。上流ダムに、筑後川左支川津江川に下筌ダム(大分県中津江村、熊本県小国町)、同大山川に松原ダム(大分県大山町、天瀬町)の建設に着工し、昭和44年3月下筌ダム、昭和45年12月松原ダムが完成した。
 昭和32年から昭和45年の13年間、下筌ダム地点に蜂の巣城の砦を築き、このダム建設に対し公共事業の是非を問いつづけ、公権と私権に係わる法的論争に挑み、国家に桔抗した室原知幸の闘争はあまりにも有名である。


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