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水害を防ぐために筑後川上流にダムをつくる計画は、大山川水系では久世畑、松原、梁瀬、下筌、二俣の5地点が候補にあがった。梁瀬と二俣地点は地質的に阿蘇溶岩であったことから失格となり、最終的には大山村の久世畑地点(現大山町では九膳ケ畑という)も選ばれなかった。下筌、松原ダムの二つのダムの組み合わせによって二段式のダム計画が決定された。久世畑地点にはいまでもダム地質調査による横坑試掘調査の跡が残っている。 当初、久世畑地点が候補地にあがったとき、大山村は、役場、小中学校、農協、駐在所、商店街などの中心地が水没することから、昭和28年10月26日に村民大会において、村の存続が不可能になるとして、久世畑のダム建設絶対反対を決議し、ムシロ旗を掲げて反対行動を行った。昭和32年ダム建設は、下筌、松原地点に決定された。大山村は、昭和33年4月29日の村民大会において、松原ダム建設について条件闘争へ展開することを決議した この久世畑地点から下筌、松原地点へのダム建設の変更に関し、のちに室原知幸は建設省に対し、久世畑地点の地質調査の結果を明らかにするように問うている。
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昭和32年8月17日初めて、九州地方建設局日田工事事務所主催のダム建設の説明会が、熊本県小国町志屋小学校において行われた。この説明会は、筑後川の水害を防ぐために下筌ダム、松原ダムの建設の必要性であって、水没者の最も切実な生活再建に係わる話は一言もなかったとして、水没者から激しい反発を受けた。同年9月室原知幸らは「建設省職員とその関係者面会お断り」の木札を戸口にかけ、事実上、小国町志屋地区民のダム建設の反対が始まった。室原知幸著『下筌ダム − 蜂之巣城騒動日記 −』(学風社・昭和35年)の冒頭に「我々が定住し、生活し、築いてきた阿蘇の村々を赤紙一枚で湖底に沈めなければならないのか。我々は赤紙の中味を調べたいし、役人の思い上がりは納得できない」と記され、昭和32年から昭和35年までの法的闘争、建設省の筑後川総合開発計画に対する疑点を論じている。
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蜂の巣城紛争について、下筌・松原ダム問題研究会編『公共事業と基本的人権』(帝国地方行政学会・昭和47年)の資料編を参考として、主なる事件を追ってみた。
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昭和33年4月 松原ダム調査事務所開設(野島虎治初代所長) 8月 小国町志屋地区志屋小学校で絶対反対決議 34年1月 九地建土地収用法の適用にふみきる。 4月 立木伐採開始 5月 蜂の巣城構築始まる 9月 九地建事業認定申請 35年1月 室原知幸事業認定の意見書15項目提出 2月 河川予定地制限令の適用区域告示 4月 事業認定告示 5月 室原知幸事業認定無効確認の行政訴訟を提訴 6月 熊本県知事試掘許可 九地建代執行水中乱闘事件 7月 室原知幸公務執行妨害で逮捕 38年9月 事業認定無効の確認訴訟をしりぞける(東京高裁に控訴) その後北里達之肋ら室原知幸袂を分ける 39年1月 小国町議会ダム条件賛成を決議 6月 九地建代執行 蜂の巣城落城 12月 事業認定無効確認請求訴訟休止満了。(室原知幸敗訴確定) 小国町関係者水没者補償基準決まる 40年1月 蓬来地区集団移転地造成工事竣工 2月 松原下筌ダム工事事務所(第2代所長副島健赴任) 5月 下筌ダム本体工事着工 6月 第二次蜂の巣城代執行 41年3月 松原ダム本体工事着工 44年8月 下筌ダム本体工事完工 45年6月 室原知幸死去 9月 九地建遺族へ和解を申し入れ 10月 円満和解解決 47年1月 松原ダム試験湛水完了 3月 下筌ダム試験湛水完了
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この『公共事業と基本的人権』は、下筌・松原ダムの問題点を明らかにし、それを法的に社会的に追求した根幹の書といえる。その内容は、第1編〔公共事業と基本的人権 − 蜂の巣城紛争における企業者と住民の接点を中心として(廣木重喜・櫻田譽)、蜂の巣城紛争における室原理論の基調(森純利)〕、第2編〔民事事件・行政事件 蜂の巣城紛争の発端と法廷闘争、事業認定判決の意義、収用裁決と代執行に対する法廷闘争、刑事事件、闘争初期の刑事事件、収用および代執行にからむ刑事事件〕、第3編〔座談会〕、第4編〔随想 下筌ダムと私の反対闘争(室原知幸)、亡夫を回想して(室原ヨシ)、“大学さま”の復活を望む(野島虎治)、下筌ダム・松原ダムに従事して(副島健)、室原知幸氏の“もっこす精神”(高浜守雄)、室原知幸氏と副島健氏の随想を読んで(石田哲一)〕、第5編〔資料〕という構成を採っている。
憲法29条は『「財産権はこれを侵してはならない。財産権の内容は公共の福祉に適合するように法律でこれを定める。私有財産は正当な補償の下にこれを公共のために用ひることができる」と規定している。蜂の巣城紛争は松原、下筌ダムの建設事業が公共福祉に適合するかどうかが法的に争われた。この書のなかに「国民の享有する基本的人権は本元的に公共の福祉と相抵触し、矛盾するものであろうか」と提起し、「本来基本的人権は、就中財産権は、権利の内在的、本来的な性格として、公共の福祉に適合すべき公共性と社会性を具有するものにほかならない。また公共の福祉は国民の生命、身体、財産、自由、幸福を究極において希求しているものである」と述べている。すなわち、ダムの建設は「公共の利益という未見の未実現価値と個人の今失われんとする生活利益とは、静態的には相容れない様相を呈するものでありながら相互の価値交渉が真摯に、行われるならば、公共の福祉と人権の保障とは、究極において均衡点をもちいるものであり、したがって両者の間にはバランスのとれた調和を見出すことが可能である。‥‥当初は鋭く対立した両者の拮抗も、円満な均衡点を見出しうるものといわなければならない。』と、公共事業と基本的人権との調和について結論づけている。
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