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 昭和35年6月建設省の代執行は、日米新安全保障条約の騒動、組合員の解雇反対における大牟田の三井三池労働争議と重なり、ダム建設反対行動が全国からの労組の支援を受けるなかで、蜂の巣城で行われたが、激しい抵抗にあった。俳人である杉野なおきの『蜂ノ巣城』(叡智社・昭和47年)は、このような騒動や争議の時代背景を描きながら、長年の友人のように暖かい目で丹念に、室原知幸の闘いを追い、この事件の全体の流れが分かる。
 のちに直木賞作家となった佐木隆三の『大将とわたし』(講談社・昭和51年)は、 中編小説であって、室原知幸が北里達之助、穴井武雄らと袂を分かち、孤立した闘いのなかで綾垣直との交流を描いている。水没者綾垣直の補償はとり残されたようで、彼は室原知幸を頼るしかなかったのであろう。


 前述のダム関係書四冊を随時とりあげて書かれた松下竜一の『砦に拠る』(筑摩書房・昭和52年)は、この一冊を読んでも下筌・松原ダムの問題点がわかる。室原ヨシの話を基調として、実に丁寧にあらゆる関係者に取材され、綿密なドラマ構成となっており、室原知幸の真実の人間像を描ききっている。
「それでん、お前ん主人の室原知幸ん闘いじゃったろうちいわるれば、そらぁもそうにゃ違わんとですけんど、わたしゃただもう知幸ん陰でいうが通り動いちょっただけんおなごでございましたもん。あん永い闘争ん歳月、何がどげぇしてどうなっちょるちゅうよな説明は、主人からはひとこつも聞かざったつです。そげな馬鹿んこつがち思わるるでしょうが、これはもう室原知幸ちゅう男を知らんお方にゃ、分かってもらえんこつかもしれませんですね。」

 「君達は反対反対と気安く言うが、本当に覚悟はあるのか」と厳しく問い返した。
 「おれがいったん反対に立てば絶対に途中でやめん。それについて来るだけの覚悟は君達にあるのか」
 「ありますばい、大将ん指示通りに動きますばい、是非指示してやってください」

 同書に室原知幸と対峙した野島虎治についてついて書いている。
「野島は東京帝国大学を卒業して、建設省の前身である内務省東北土木出張所に入ったのは敗戦後間もない1947年であった。‥‥雄物川上流の鎧畑ダム工事に野島は携わった。はえぬきのダム屋だったという自負はそこから生まれた。1953年の筑後川大洪水の惨禍を知ったとき、天草出身の彼は自ら希望して、九地建筑後川工事事務所(久留米)へ移ってきた。」
 のちに野島所長は、「話せば判ってもらえる − 謙虚に自然と語ろう、技術者の心情とダム建設の知恵と意欲を赤裸々に吐露して話し合えば、必ず判ってもらえるとの信念のもとにあらゆる機会にあらゆる手段をつくして、それこそ若き技術者の精魂を傾けて、老人の心の扉を叩いたが‥‥」(昭和50年3月・土木研究所資料第1119号)と述べている。
 室原知幸と野島虎治は運命的な出会いに直面することとなった。水害によって二人の人生を一変させた。ダムを絶対造らせまいとする者と、筑後川流域における人命と財産を守るために、ダムを絶対造らねばならない者との確執と葛藤は、お互いに自ずの信念に基づき、火花を散らしながら、必然的に法的闘争に向かわざるを得なかった。

 昭和35年1月室原知幸は、事業認定申請書に対する意見書に「松原・下筌ダム計画は筑後川総合開発事業の一環であると事業認定申請書にうたっているが、その総合開発計画に関する記述が欠如している」と、15項目を揚げ、建設省に対し説明責任を求めた。室原は「科学的に筑後川流域を検討したうえで、ダム建設が真にやむを得ないというデーターが示されれば納得しないこともない」とも公言している。
 昭和38年9月事業認定の判決は,「国家事業の全面的停滞、他事業への影響を恐れて、下筌・松原ダムが多目的ダム法にいう多目的ダムであり、基本計画の作成もないまま事業認定については、理想的ではないが宥恕しうる行政行為」として正当化した。
 のちに、石田哲一東京地方裁判長は「あの判決は裁判官としての私自身の社会的良識による判断です。その訴訟でもし国を敗訴させていたら、あれ以降ほとんどの公共事業が停滞することになったでしょう。」と述懐している。室原は石田を恨むことはなかった。昭和43年の秋、室原、石田、副島の三人は、耶馬渓に小旅行に出かけている。このとき室原は <新地ノ山架橋これ恩讐の彼方我も建設省も> と詠んだ。文豪菊池寛の代表作『恩讐の彼方に』の禅海和尚のことを詠んでいる。いつ、どのような方法でもって、和解の道をとればよいかをすでに考えていたのであろうか。結局は、昭和45年6月の室原の死によって、建設省との和解の道が開けることとなる。


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