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 昭和42年から昭和51年まで調査をされた関西大学下筌・松原ダム総合学術調査団編『公共事業と人間の尊重』(ぎょうせい・昭和58年)は、『公共事業と基本的人権』に続く書であり、法律学、社会学、工学、考古学、生物学の面から学際的にまとめられている。


 「理にかない、法にかない、情にかなわなければならない」という室原知幸の理念について、櫻田譽は、「公共事業を行う者は関係住民に法の遵守を主張すると共に、自らも関係諸法制を正確に認識し権限の行使、義務の履行を誤ってはならない。地質の悪いこの地域にダムを造ることは玖珠川水系にダムを考えず大山川水系のみに二つのダムを造るのは理にあわない。水没住民の生活再生に対する十分な配慮なしに工事を強行するのは情に反する。」と論じている。
 この「理」「法」「情]の思想について明確なる文献資料を見い出せなかった。室原知幸は足尾銅山事件の田中正造を尊敬しており、早稲田時代の吉野作造の民主主義等、多彩な大正デモクラシーの洗礼を受け、思想的にそれらの影響を強く受け、その信念が培われたことと推測される。ただ、朱子学なのか、陽明学なのか、中江藤樹、熊沢蕃山の思想であろうかとも考えてみた。

 この書の中の「ダム建設をめぐる地域社会の解体と再編成 − 集団移住方式をめぐる諸問題 −」で神谷国広は次のように論じている。
「ダムによって止むなく水没する地権者は先ずなによりも個人生活が短期的にも、長期的にも崩壊し、積年の生活機能が根本的に破壊されるということ即ち、生活の死の実態である。補償はそこから転生を可能にする唯一の資源として意味をもつ。補償が単なる補償にとどまらず保証でなければならない理由であると。さらに、社会の喪失として、生活上の共同体関係と重なって生活上の相互、扶助、組織や慣行により、家と家、したがって人と人とは離れがたく結合し融合している。水没は個々の所帯、個々の家族の生活基盤の解体であると同時に有機体としての地域共同体の解体であると。この二つの生活、社会の喪失の再開を新たに転生することによってここに集団移住方式の意義がある。」
 室原知幸と袂を分けた北里達之助は事前に、自費によって小国町蓬来団地の土地を購入し、志屋地区9世帯、浅瀬地区13世帯、小竹地区8世帯、中津江村の4世帯計34世帯の移住をリードした。移住生活にあたっては、神社、共同墓地,集会所などの旧生活の保存を図り,新たな開発として共同養鶏場、共同しいたけ栽培運営を図り、従前の山林経営と併せて生活再建を行った意義は大きい。
 なお、補償については、小国町の関係者だけでなく、天瀬町、中津江村、大山村の関係者もまた大変難儀されたことは論をまたない。両ダムは多くの方々のご努力とご協力によって完成された。



 また両ダムは、明治から続く筑後川水系の水力発電の歴史にその1ページを新たに加えることとなった。日田市の医師であり作家でもある河津武敏著『水力発電所を探訪する山中トンネル水路 − 日田電力所物語』(日田文学社・平成13年)には、鳴子川、玖珠川、杖立川、大山川、三隈川に係わる筑後川上流の水力発電所の歴史とその役割、さらにその位置と水路を写真と図によって著している。また、下筌・松原ダムの闘争、大山川ダム取水口、高瀬川取水口、柳又発電所についても記されている。日本の河川を総合的に水力発電から捉えた書は稀であり、明治・大正を通じて、筑後川の利水は水力発電から始まったことを如実に物語っている。
 最後に、行政側による建設省筑後川ダム統合管理事務所編・発行『松原下筌ダムの記録』(平成4年)では、第1部「総論編」、第2部「技術編」、第3部「用地編」、第4部「資料編」から構成され、両ダムの総務、経理、用地業務、なおかつ設計、工務、電機機械等業務に携わった方々の苦労された足跡をたどることができる。
 野島は「名にしおう阿蘇火山系の難しい地質条件を新しい技術力で克服して、近代的なダムを築造するために、設計、施工に異常な苦心と創意工夫を必要としたのであるが、湛水にあたっても、これに勝るとも劣らない苦労と慎重さが要求された」(『公共事業と基本的人権』)と述べている。ダムを造る熱意は、すなわち筑後川流域の住民の生命とその財産を水害から守ることであり、この両ダムの企業者と施工業者のすべての技術者たちの責任感と使命感の強固なる意志には大きな感動を覚える。地すべり対策等に係わる技術は以後のダム造りに大いに貢献した。

 松原ダムの諸元は堤高83.0m、堤頂長192.0m、堤体積29万4,000m3、総貯水容量5 460万m3の重力式コンクリートダムであり、施工業者は大成建設鰍ナある。また下筌ダムの諸元は、堤高98.6m、堤頂長248.23m、堤体積28万2,000m3,総貯水容量5,930万m3のアーチ式コンクリートダムであり、施工業者は西松建設鰍ナある。現在の両ダムの目的は洪水調節、河川の維持用水、日田市への水道用水(日量8,600m3/s)、松原発電所5万600kW、下筌発電所1万5,000kWの発電を行っている。
 なお、主なる用地補償は移転世帯483戸、土地取得面積3,961万5,000a、公共補償は小学校、駐在所、郵便局、特殊補償水力発電所3カ所などである。
 昭和48年両ダムの管理運用以降の事業について、建設省は再開発事業として、水質保全事業、松原ダム選択取水設備、水道用水として松原ダム新規放流設備、松原ダム小水力発電設備、ダム周辺環境整備を施行した。さらに平成3年台風9号などの膨大な風倒木被害にあったため、樹林帯整備を行い、平成14年水環境整備事業として、松原ダム放流整備改修、大山川ダム放流設備改修を行って、大山川等の水量増加を図った。

 この蜂の巣城の事件を契機として、多目的ダム法、土地収用法、河川法などの改正が行われ、法的整備がなされた。さらにダム等の建設によって著しく生活基盤が変化する水源地域には、生活環境、産業基盤を整備し、特別な措置を講ずる水源地域対策特別措置法が昭和49年4月施行されている。
 なお、筑後川中下流域には、原鶴分水路、河道部の掘削、堤防のかさ上げ、一部引堤等河川改修事業が実施され、両ダムの完成後、筑後川堤防の決壊は生じていない。筑後川流域の住民100万人の生命とその財産が守られている。また、利水として日田市へ1万人分の水道を供給し、3万2,000世帯分の電気を発電している。いまここに、環境問題を除いては、公共の利益は実現されている。筑後川上流、中流、下流の住民たちの交流は植林業務、教育活動、物産の販売を通じて盛んに行われている。かつて、上流の木材は筏に組まれ川を流れ、下流の大川市にて家具として加工されてきた歴史があった。いまでは、上流でとれた梅に、中流の筑後米が有明海の海苔で巻かれ、おいしいおにぎりとなる。上流、中流、下流は一体である。すなわち山と川と海は一体である。地域の活性化に向けて、すばらしい交流の絆は続く。

 ダムを造らせまいとした室原知幸は、昭和45年6月29日逝去。ダムを絶対に造る信念を持った野島虎治も、平成3年4月22日に亡くなった。激しく対峙していた二人は、ダム建設によって生命を縮めた。すべてを恩讐の彼方へ。
 二人は、いまごろ、こんな会話をしているかもしれない。
 「野島さんよ、あんたよくやったバイ」
 「イヤイヤ室原さんこそ」
 「ダムが出来てよかったバイ」
 「筑後川に大水害は、おこっちょらんもんね」

 <村を沈め 田畑を沈め 野を沈め
             愛も沈めし 水の記憶は>
    〔星野 京〕


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