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■宮ケ瀬ダムの幕開けは神奈川県の計画が下敷き
 
 建設省は昭和44年3月,相模川水系を県管理の二級河川から建設省管理の一級河川へと指定替えをした。そして同年9月,中津川に大ダム建設構想を打ち出し,10月には,予備調査を清川村,愛川町,津久井町の3町村に申し入れをし,これが宮ケ瀬ダムの幕開けであった。

 しかし,神奈川県はこの約10年前の昭和35年に既に中津川の水利用を考えていたのである。県営の城山ダム(津久井湖)に中津川から毎秒7tの水を,導水トンネルで引き込みしようとするものだったが,住民の反対で計画倒れとなり,昭和43年さらに高度の水利用を図ろうと「中津川総合開発事業」をスタートさせたのである。昭和40年の東京サバクに続いて,神奈川県も異常渇水で苦慮していた年でもあった。建設省はこの県の計画を再検討するために持ち上がったものである。
 後に,神奈川県が水役者に対して感謝協力金の支給をし,水源地域の活性化など思い切った施策を講じたのは,このような背景があったからと思っている。


宮ヶ瀬ダムが建設された中津渓谷の石小屋付近
 46年12月,建設省は実施調査を地元に申し入れ,翌年11月には住民も条件付きながら調査を承認した。調査終了後の49年8月ダムの建設は,第一,第二候補地とも建設は可能として,水没地域の財産調べともいうべき土地,物件調査(一筆調査)を申し入れてきた。
 しかし,この時期に種々問題が起きていた。ダム対策委員会は,その後の対応策や役員に対する不満もあって分裂。「各地区ごとの対策協議会」と「ダム研究会」グループに分かれてしまった。その後,各地区の協議会は「宮ケ瀬ダム対策連絡協議会(連協)」を結成し,他方,ダム研究会のメンバーを中心に「宮ケ瀬ダム合同委員会」も結成された。当事の世帯のうち約ハ割は連協に所属したのである。
 両者の主張の違いは,連協が「実施調査承認時の回答やその後建設省・神奈川県からの総合施策の提示などで,疑問点はほぼ解明されており,一筆調査を承認しても問題ない。」とするのに対し,合同委員会は「一筆調査承認前に損失補償基準や代替地問題を解決すべきだ」と主張。このように組織の分裂のみならず,さらに,水役者組織の事務局を村役場職員が兼ねていたことなどもあって「行政サイドで進み過ぎる」などの批判が出ていたのである。

  宮ケ瀬ダム水没関係組織 

   宮ケ瀬ダム対策連絡協議会  201戸(全戸水没)
   宮ケ瀬ダム合同委員会    73戸(全戸水没)
   煤ケ谷地区ダム対策協議会  20名(山林所有)
   愛川町石小屋地区協議会   8戸(全戸移転)

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