■建設を巡る論争
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戴晴編著(鷲見一夫など訳)『三峡ダム−建設の是非をめぐっての論争』(筑地書館・平成8年)は、中国国内におけるダム論争の集大成である。
同書は三峡ダム建設に伴う財政、水運、堆砂、治水、発電、住民移転、文化財保護、環境保全に係わるあらゆる問題について論じている。ほとんどがダム建設反対の立場から編集され、ダム建設のメリットよりデメリットの方が多い、と指摘している。
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「短命のダムへの反対」(パトリシア・アダムス/フィリップ・ウィリアムズ) 「三峡プロジェクトの総投資予算は過小に見積もられている」(喬培所) 「三峡ダムは永遠に建設すべきではない」(黄万理) 「黄金水道を断ち切ったら、もう一つの長江を掘り出せるだろうか」(彭徳) 「住民移住と土地の水没により生産力が著しく損なわれるであろう」(王興讓) 「三峡プロジェクトの洪水防止の便益は限られている」(陸欽 ) 「三峡プロジェクトによる生態系環境の破壊は計り知れないほどの負の遺産を残す」(候學) 「長江の治水開発は支流を先に本流を後にの原則に基づくべきである」(陳明紹) 「発電のために三峡プロジェクトは合理的な選択ではない」(羅西北)
ダム賛成の意見が唯一掲載されている。それは、 「三峡プロジェクトに関する私見と提言」(李伯寧) である。
この書は、女性ジャ−ナリスト戴晴編著『長江 長江−三峡工程論争』(貴州人民出版社・1989年)の翻訳書である。1989年4月〜6月天安門事件が発生し、戴晴は、この天安門事件直後7月、騒乱を扇動したという理由で逮捕され、この書は発売禁止となった。このように三峡ダム建設に対し、異議や反対を唱える水利関係者のなかには、「右派分子」と認定され、失脚する要因ともなった。河川工学的論争から政治的論争に発展してしまったが、1992年全人代におけるダム建設の決定後、この論争は沈静化している。
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このような建設の是非をめぐる三峡プロジェクトの経緯について、『三峡ダム』と『中国の世紀』の書から主な事件を追ってみた。
1911年 若いドイツ人、ビス夫妻が武漢から船で重慶まで下る 1919年 孫文(1866〜1925)が「建国方略」の中で、三峡ダムについて 最初に言及 1944年 アメリカ開発懇局のサバ−ンが長江三峡の調査に基づき計画書 を提出 1947年 国民党政府は三峡ダムに関する一切の設計作業を中止した 1949年 中華人民共和国が成立。長江水利委員会を設置 1953年 毛沢東(1893〜1976)が洪水制御の目的のために三峡地域のダム を提唱 1954年 長江中、下流域で100 年1回の大洪水発生、死者3万人、100 万人 の家屋喪失 1955年 ソ連の専門家により、三峡ダ ムサイトの調査実施 1956年 毛沢東は「江に石の壁を立て、巫峡を堰き止め、高き峡に平なる湖 を作り出せ」の詩をつくる。 長江流域企画弁公室(以下「長弁」という。)が設立 1958年 毛沢東は推進派の林一山と反対派の李鋭の意見を聴取、結論出ず 1959年 長弁は三斗坪地点を三峡ダ ムサイトに決定 1965〜 文化大革命が発生し、一切のダム建設準備作業を中止 1975年 1970年 三峡ダムの準備作業として、長江本流に葛州覇ダムを建設決定 (1988年完成) 1973年 丹江口ダムが15年を経て完成 1981年 長弁は三峡ダムの段階的開発の方式を承認 1982年 水利部と電力部が合体、水利電力部を再建 1983年 「三峡プロジェクトのフィ−ジビリティ調査報告書」を提出、 150m級の高位ダムを承認 1984年 国務院は国家計画委員会の見解を受け入れ、 175mのダム建設を 承認 1985年 全人代で財政難のため審議を延期 「三峡工程論証指導小組」を結成 1986年 中国人民政治協商会議が38日間にわたって現地調査し、着工の 見合せを勧告 カナダ政府は三峡プロジェクトの「フィ−ジビリティ調査」のため に 874万ドルの贈与を行う旨を発表 1988年 カナダ世銀合同による調査報告発表、 185mダム案早期着工を提案 1989年 戴晴編著『長江 長江』を出版。全人代の報告書が三峡プロジェクト の延期を勧告 天安門事件おこり、戴晴が逮捕。『長江 長江』が発売禁止となる 1991年 国務院はダム建設への着工を承認、1993年に準備作業に開始される べきとした 1992年 全人代で三峡ダムの着工を採決(賛成1,767 票/反対 177票/ 棄権 644票/無投票25) 国際水裁判所(アムステルダム)は、三峡プロジェクトについて中国 政府とカナダ府政に対し、人権、環境の面から敗訴の判断 1993年 三峡ダム建設事業実施の「中国長江三峡工程開発総公司」を設立 三峡ダム建設のために全国の電気料金を値上げ 1994年 三峡ダム着工 1995年 アメリカ政府は、アメリカ輸出入銀行による三峡ダム建設への融資 を見合わせ る。 1996年 通産省、三峡ダム事業に貿易保険適用、日本輸出入銀行も融資の実施 を図る 1997年 日本の8社連合、発電機(14基)の国際入札に敗退、欧州勢が受注 長江本流を堰止め、第二期建設工事が始まる 1998年 長江で 100年に1度の洪水(中流域で死者 1,320人) NKKが高級厚板を受注 二灘発電所1号機を稼働 湖北省・姉帰県の新しい移転先が完成 朱鎔基首相が現地視察、品質管理を注文 1999年 武漢の雑誌「戦略と経営」が住民移転など、三峡ダムを批判 朱鎔基首相が住民移転政策の調整と整備、企業移転政策の調整を指示 「南水北調」の「中央線」プロジェクトの測量、地質調査が完了 NKKがステンレス・クラッド鋼板を受注 住友商事、三菱電機連合が変電設備の国際公開入札で敗退 2000年 日本の無償援助による荊江大堤防の補強工事完成 重慶市雲陽県の農民 639人が上海河口崇明島に到着(初の外地移転) コンクリ−ト打ち込み機の一部崩壊 作業員3人死亡、負傷者30人 2002年 第二次仮 締切り 2003年 第二期工事完成、一部発電開始ダム湖の水位 135mに達する。 第三期工事開始 2008年 北京オリンピック開催 2009年 三峡ダム完成予定(ダム湖水位 175mに達する)
この経緯からみると、1992年全人代の採決でダム建設の賛否が分かれた。全人代の議題は 100%の賛成で採決されるのが一般的であるが、賛否が分かれたことは異例なことである。
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新潟大学教授である鷲見一夫著『三峡ダムと日本』(築地書館・平成9年)は、三峡ダム建設を批判的に捉えた書である。例えば、堆砂問題について、「この堆砂問題への対応策として、蓄清排渾、清水を蓄え、泥水を排すという方式である。即ち、土砂流入の比較的少ない渇水期に貯水池に水を蓄え、増水期に放水することにより、同時に土砂も排出するという。これに対し増水期に排水するというのは洪水防止の目的と矛盾してくるからである。増水期はダム貯水池に洪水量を蓄えなければならないからである。洪水時に排水するなら洪水防止を達成することは出来ない」と、批判する。
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さらに、李鋭の「三峡ダムの洪水防止の役割であるが、三峡ダムは洪水量の20%を制御し得るにすぎない。水害問題には、堤防の強化、河道の障害物の除去、川床の浚渫、さらには、遊水池を合理的に利用すること、干拓して、農地に変えてしまったところを遊水池に戻すべきである」と、その主張を挙げている。
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