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《筑後川下流用水》
終わりに、ダムの築造はないものの、筑後川下流用水事業についてみてみたい。昭和56年この事業は農水省より水資源開発公団が承継し、筑後川下流土地改良事業の一部を分離したもので、取水施設及び幹線導水路等を建設することとなった。福岡県及び佐賀県の筑後川下流地区約34,800haの農地に、筑後川から導水する別途施行中の国営筑後川下流土地改良事業、県営圃場整備事業と相まって、地区内に散在するクリ−クの統廃合による大規模な用排水系統の再編成、淡水取水の合理化、灌漑用水不足の解消を目的として施行された。
筑後大堰の湛水区域内の筑後川左岸筑後揚水機場(久留米市安武町)から筑後導水、矢部川左岸導水路により最大 13.54m3/Sの農業用水を送り、一方佐賀県の右岸側は同時に大堰湛水区域内の佐賀揚水機場(佐賀県北茂安町)から佐賀東部導水路、大詫間幹線水路により最大 18.60m3/Sを送水している。全体の筑後川土地改良事業は 100年を要すると言われているが、この事業は事業費1022億円をもって、平成10年3月に完成した。その建設記録として筑後川下流用水建設所編・発行『筑後川下流用水工事誌』(平成10年)が刊行された。
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余談ながら、佐賀県千代田町、神埼町における佐賀東部導水路の一部が、平成元年に発見され、日本中の注目を集めた弥生時代の環濠集落「吉野ケ里遺跡」の地に埋管されている。この小高い丘の区間をシ−ルド工法にて施工中、同時に文化財発掘調査も行われ、ほとんど工事完了時点でカメカンの中から宝剣、真玉が発掘された経緯がある。
筑後川水資源開発の変遷を辿ると、藩政期に中流域における袋野堰、大石堰、山田堰、床島堰の4堰が灌漑用水として開削され、明治・大正期には上流域に水力発電所が築造された。戦後、昭和28年6月筑後川大水害を契機として松原ダム、下筌ダムが主に治水の目的で建設され、下流域での水害が減少した。昭和40年以降、高度経済成長社会を背景として、両筑平野用水、寺内ダム、筑後大堰、福岡導水、筑後川下流用水、耳納山麓土地改良(合所ダム)の各々の事業が完成し、管理に移行した。なお、猪牟田ダムは中止になったが、現在、大山ダムの建設、小石原川ダムの調査が進められている。
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