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3.吉野川総合開発計画の経緯

 吉野川における総合開発事業の経過について、建設省四国地方建設局徳島工事事務所編・発行『吉野川百年史』(平成5年)によりその経過を追ってみたい。

・昭和13年内務省は河水統制事業による吉野川水系の調査に着手したが、第2次世界大戦の激化によって中断、事業計画をみることにはならなかった。

・昭和23〜25年経済安定本部が中心となって、建設省、農林省、通産省、四国四県、各電力会社の協力のもとに、いわゆる”安定案”と呼ばれる開発計画が立てられた。これが現在の吉野川総合開発計画の原型といえる。それは、吉野川本流に早明浦、小歩危ダムを築造し、その下流の池田に逆調整池を設置し、洪水調節と合わせて下流用水の確保と発電を行うものであった。

・一方、高知には大森川と穴内川にそれぞれ分水し、愛媛、香川には柳瀬ダム(昭和28年完成)とその他に銅山川の下流に岩戸ダムを築造し、その用水確保を図る計画であった。

・昭和25年5月国土総合開発法の制定により、昭和26年四国地方総合開発審議会が設立され、四国総合開発計画の検討を始めた。昭和27年電源開発(株)(昭和27年7月設立)は池田に吉野川調査所を開設し、独自の調査を開始し、早明浦、敷岩、大歩危、小歩危、池 田地点の本流開発からなる案を計画発表した。

・昭和28年8月「安定案」、「電源開発の案」を比較検討結果、一つにまとめた調整試案を発表した。

・しかし、昭和30年頃下流徳島県では分水反対の気運が高まり、審議会が開かれる度に開発の熱意はうすれていった。

・四国電力(株)は延々として進まぬ開発計画にしびれをきらし、吉野川総合開発計画の一端であった大森川ダムを昭和32年に着工、樫谷ダムは穴内川ダムとして昭和35年に着工し、昭和34年、39年に各々完成をみた。

・昭和33年6月建設省は四国地方建設局を高松市に開設し、昭和29年の吉野川の大洪水をもとに治水計画を再検討するとともに電源開発(株)の計画案や農林省の農業用水の計画の調整をとりながら早明浦ダムを中核とした吉野川総合開発計画を作成した。

・この間に経済高度成長に伴い、各地で積極的な産業基盤の整備が進められ工場誘致のための産業立地が強く望まれることとなり、吉野川の水を総合的に利用する必要にせまられてきた。

・昭和35年四国地方開発促進法の制定により、四国地方開発審議会を設立し、昭和37年この審議会のなかに吉野川総合開発部会が設けられた。「早明浦ダムを中核とした総合開発計画」に絞って討議が進められ、早明浦ダムによる各県の用水配分と費用割振りについて審議が行われた。

・昭和41年2月第21回も協議が重ねられ同年6月東京で第4回部会において、建設省が提出の最終試案が承認され、ここに戦後20年来の懸案であった吉野川総合開発計画も決定の運びとなった。

 吉野川総合開発計画は早明浦ダムを中核とした計画であり、これは吉野川上流の高知県早明浦地点に高さ 106mのダムを築造して有効貯水量2億8900万m3の貯水池をつくり、この貯水池によって吉野川の治水計画の一環として洪水調節を行うとともに四国四県に対する新規用水の供給及び電源開発を行うものである。

 昭和38年4月建設省は早明浦ダム調査事務所を開設し、昭和40年4月工事事務所に名称を変え、付帯工事に着手した。
 昭和41年11月吉野川が水資源開発水系に指定されたことにより、昭和42年4月早明浦ダムの建設事業は建設省から水資源開発公団に継承された。


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