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国土総合開発法と北上川総合開発

 米軍占領下の昭和25年末、第二次吉田内閣は画期的な立法措置といえる国土総合開発法の制定を受けて、さっそく特定地域の諮問を行った。吉田内閣は民生安定を目指して荒廃した国土の復興・開発を急いだ。政府の諮問を受けた国土総合開発審議会は、建設省作成の「指定基準」を基に地域特定の作業に入った。しかしこれが難問だった。

 特定地域はその開発整備費について政府が特別措置を講ずることになっており、しかも指定は「経済自立の達成に寄与する資源の開発、産業の復興及び国土の保全、災害の防除などに関して高度の総合施策を必要とし、かつその実施により著しく効果を増大できる地域である」ことが条件であった。指定地をめぐって露骨な政治的駆け引きが、政界・地方自治体を巻き込んで展開された。

 結局、都道府県から建設省に出された51候補地のうち19地域に絞られ、総理大臣吉田茂はこれを審議会に諮問した。答申は諮問に沿ったもので、主な指定地域を記すと、最上、北上、只見、利根、能登、木曽、大山、出雲、四国西南、北九州、阿蘇、南九州などとなっている。これらの地域的特長をあげれば、大都会から離れた社会基盤の整備が大幅に遅れた地域で、水害の元凶となる大河を抱えた地域であることに共通点があった。

 総合開発にいち早く着手した東北の大河・北上川流域を取上げたい。流域は、相次ぐ大水害で山野は荒廃し、流域の市町村は疲弊の極に達していた。政府は河川流域総合開発の規範とされ「草の根民主主義」に寄与したと称賛されたアメリカ・TVA(テネシー河流域開発公社)を規範として計画案の策定に入った。計画を北上川のイニシアル「K」をとって「KVA」と呼んだ。そこに一大プロジェクトに挑戦する技術者の決意を読みたい。

 岩手県内の北上川上流に5つの多目的ダムを建設し、洪水調節と共に水力発電や鉱工業の振興を目指し、農業生産の増大を視野に入れた農業用水も確保するとの壮大な計画であった。ダム建設予定地となった渓谷や村落では全村水没の恐れもあることから抵抗運動が展開された。治山治水の計画遂行を急ぐ行政当局に「ある程度の犠牲はやむを得ない」との判断があったことは否定できず、行政側の対応に不信感を抱く地元住民は少なくなかった。


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