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2.石川県の水害

 石川県内の河川は、前述のように能登地方の丘陵地帯から流れだす鵜飼川(延長10km)、町野川(22km)、河原田川(17km)、八ケ川(19km)、羽昨川( 3.1km)などの中小河川と、加賀地方の白山山地を水源とする手取川(72km)、梯川(42km)、大聖寺川(38km)などが流れている。これらの河川はその流域に恵みの水をもたらしてきたが、その反面ひとたび豪雨ともなると度々水害を生じさせてきた。石川県を代表する大河川手取川は急流河川、天井川という河川特性からその流域では水害の被害を受けている。藩政期には 260年間のうち、 160回も洪水出水にあったという。とくに昭和9年7月11日の豪雨は大水害をもたらした。石川県の水害について、主に手取川と梯川の記録から追ってみる。

【戦前の水害】

・明治14年5月
 前年の大雪の融雪水と5月の連続の降雨により、至る所で手取川の堤防の決壊を起こし、粟生村(現・寺井町)で死者22人、流失家屋10棟、浸水家屋80戸、田畑 100haにわたる被害を及ぼした。

・明治29年8月・9月
 8月1日の豪雨のため、手取川、梯川をはじめ、石川県の各河川がいずれも増水し、特に手取川、梯川の流域の被害は死者73人、負傷者 147人、 床上浸水8823戸、床下浸水2120戸、流失橋梁1280橋に達した。
 さらに9月6日〜7日豪雨は県下の河川がまたもや大洪水に見舞われ、死者7人、負傷者19人、全壊家屋 323戸の被害に及んだ。

・昭和9年7月
 このときの水害は手取川の歴史上最大といわれる。前年は大雪で、融雪が遅れ7月に入ってもなお積雪が山間に相当に残っていた。そこへ7月10日の豪雨により、残雪が融けだしたのが直接の原因であった。
最上流の白峰村をはじめ、河口一帯まで泥沼化した。被害は死者97人、行方不明者15人、負傷者35人、埋没耕地2113ha、流失耕地 695ha、家屋流失 172戸、床上浸水家屋 586戸にも達した。交通機関、道路、堤防、電力、工業関係にも多大な被害を与え、なかでも能美電鉄鉄道は約1500mも下流へ流され、手取川堤防の決壊約18km( 堤防延長の約3割)を越え、約 531km2にわたって大災害を及ぼした。
 さらにこの水害で手取川左岸から梯川右岸一帯にかけて氾濫した洪水が滞留して約3000haの一大湖水を生じ、梯川と合流して梯川から河口へ、日本海に流失し、このため梯川右支川八丁川から下流の各市町村は、家屋の床上浸水の被害を受けた。
 この水害記録と復興については、川北町水害誌編纂委員会編『手取川大水害復興50年誌』(川北町役場・昭和59年)に詳細に記されている。

【戦後の水害】

 昭和20年代は、阿久根台風、キティー台風、ジェーン台風等の水害を受けているが、昭和9年7月のような大水害は発生していない。昭和30年以降の主な水害を追ってみる。

・昭和34年8月
 手取川流域では台風7号により出水、石川県内で死者1人、負傷者1人、床上浸水3210戸、床下浸水3173戸の被害を受け、水防活動が行われ、 200人余人が出動作業を行った。八ケ川流域では8月の集中豪雨で死者16人、全壊家屋36戸等に及んだ。

・昭和43年8月
 台風10号により、梯川が増水し、八丁川、鍋谷川で堤防3ケ所が決壊した。この流域に、床上浸水 200戸、床下浸水1100戸、田畑1484ha等が被害を受けた。

・昭和54年8月
 集中豪雨により、梯川が増水し、小松市内の低平地で内水氾濫が起こった。このため負傷者1人、床上浸水3戸、床下浸水86戸、田畑浸水 331ha、河川決壊1ケ所、崖崩れ1ケ所等が被害を受けた。

・平成10年9月
 台風7号の北上による豪雨となり、山間部では時間雨量50┝を越えた。手取川の鶴木観測所で警戒水位 1.4mを越え、ピーク水位は 3.1mを記録した。

 以上、石川県の水害をみてきたが、残雪が豪雨と重なった場合、大水害を起こすことがある。大雪の翌年は要注意であろう。


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