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3.千曲川の流れ

千曲川の流れ

 千曲川は、甲武信岳(標高2483m)に発し、長野県佐久郡南部川上郷を西流し、山間峡谷に入って北流して、佐久平に出る。浅間山麓から西流して小県郡の平坦部に入るが、この間関東山地から流出する相木川、内山川など、八ヶ岳・蓼科山地からの本間川、鹿曲川など、まだ浅間山を水源とする湯川などと合流する。

 さらに、千曲川は小県郡に入って左岸の依田川、産川を合流して、浦野川、右岸に神川が流入する。一方、更級郡の北部にて、飛騨山脈から流出して、梓川、高瀬川を合わせた犀川と合流する。この合流する辺り一帯を川中島と呼ぶ。合流点では千曲川の川床の方が、犀川より約1m低いので千曲川が本流となる。千曲川は高井郡に入ると俗に「チョウマ」と称される。右岸から保科川、松川、左岸の水内郡浅川、鳥居川などを合わせ、川幅約 500m、大河の様相となる。さらに高井郡、水内郡の北部に至ると千曲川は、飯山盆地内の緩流を除いてほとんど谷間を流れる急流で、やがて新潟県へ入る。この県境までを千曲川で、以北を信濃川と呼ばれる。千曲川は幹線延長 215km、信濃川全長 367kmの58%にあたる。流域面積は犀川と合わせると7178km2に及ぶ。(平凡社地方資料センター編『長野県の地名』 (平凡社・平成2年) )

 余談だが、寺尾聰、深津絵里主演のシネマ『博士の愛した数式』(監督・小泉堯史)は、一時記憶を失くした数学者、その学者を世話する家政婦と息子をめぐる、心が優しくなる温かい作品である。しかもその背景に東信地方の優美な千曲川の流れが映し出されていた。

千曲川の水害

 平常時は美しい河川であるが、急峻広大なる山岳地帯から流出する水を集める千曲川は、古くからたびたび水害をおこしてきた。市川健夫監修『定本千曲川』(郷土出版社・平成15年)により、その水害の経緯を辿ってみたい。
 仁和4( 887)年の水害は、「信濃国大水ありて山崩れ溢る」(日本紀略)、「牛馬、男女の流れ死するもの丘を成す」(扶桑略記)とその惨状を記す。

 寛保2(1742)年の水害は「戌の満水」と呼ばれる。7月27日から降り出した豪雨は8月2日まで続く。佐久郡上田内村(八千穂村)は、千曲川と大石川の激流によって、 140軒が流され、流死者 248人にのぼり、村が壊滅したという。「戌の満水」の犠牲者の慰霊碑が、流死萬霊等(八千穂村)、溺死萬霊等(飯山市)、水死童子墓と地蔵尊(長野市)が建立されており、いまでも命を落とした人々の霊を慰めている。

 弘化4(1847)年の善光寺地震によって、犀川右岸の虚空蔵山が抜け、土砂、岩石が犀川を堰き止め、水位が上昇して上流の数十カ村が水没した。

 また、明治以降も、明治15年、29年、44年、大正3年と水害が起こり、大正3年長野県は「千曲川治水ニ関スル意見書」を内務大臣に提出し、地元では「千曲川治水会」を組織した。大正6年千曲川改修が閣議で決定され、7年第一改修が始まった。

 戦後、千曲川の水害は、山林の荒廃と相まって台風の襲来が続き被害をおよぼした。昭和20年10月台風によって樽川堤防が決壊、木島村の大半が水没。昭和23年9月キティ台風によって村山(須坂市)の堤防が決壊、濁流に襲われた。34年8月台風7号によって樽川堤防決壊、樽川堤防は57年9月台風でも決壊、さらに58年9月台風10号によって戸狩、粕尾の堤防が決壊し、常盤平 582戸が浸水、農産物、家畜の被害を受けた。その後、激特事業等で河川改修が施工された。


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