ダム建設と河川一貫開発
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昭和30年代半ばから40年代前半にかけて日本は高度経済成長が続いた。その驚異的経済成長に備えたかのように大規模貯水池式の発電所用ダムが相次いで計画・建設された。天竜川の佐久間ダム(電源開発、重力式、運転開始31年)に続いて、只見川の田子倉ダム(電源開発、重力式、運転開始34年)、奥只見ダム(電源開発、重力式、同35年)、庄川の御母衣ダム(電源開発、ロックフィル式、同36年)、黒部川の黒部ダム(関西電力、アーチ式、同35年)などである。いずれも急増することが予測されたエネルギー需要に応えるものであり、ダム開発の最盛期を築き上げ同時に日本経済を支えたのである。独自の技術開発の勝利でもあった。(以下、「ダムの役割」(ダムの役割調査分科会・平成十七年三月刊)を参考にし、一部引用する)。
日本列島の背骨ともいえる急峻な山岳地での大ダム建設は、大自然に挑む男たちの姿を撮影した記録映画となり、その壮大なスペクタクルは国民に深い感動を与えた。中でも佐久間ダムのドキュメンタリー・フィルムは、敗戦で「三等国」に転じた日本人に感動と自立への自信を与えた。明るい未来を垣間見させたのである。この映像記録を鑑賞して土木技術者を志した青年も少なくなかった。映像の力である。
「水主火従」の電源構成は、昭和37年(1962)まで続いた。その後「エネルギー革命」で火力・原子力発電が大きく台頭したが、貴重なピーク時の電力供給として貯水池・調整池による水力発電開発は持続された。昭和30年半ば以降に取組まれた上流における大規模ダム貯水池での水力開発を受けて、中・下流域での水力再開発が計画された。その方式は「河川一貫開発」と呼ばれる。国内の主な水系では、上流・山岳地での大規模水力開発を受けて、水系ごとに上流部から中・下流部までの一貫した開発を目標に中・下流域での発電所建設が進められたのである。木曽川、飛騨川、大井川、阿賀野川、庄川、黒部川などがその代表例である。
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