5.青森県の水害
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主なる青森県の水害は、昭和40年以降次のとおりで、各々の河川が氾濫した。
昭和41年 10月 集中豪雨 清水川 43年 8月 集中豪雨 浅水川 44年 8月 台風9号 堤川 47年 7月 集中豪雨 赤石川 48年 9月 集中豪雨 田名部川 52年 8月 集中豪雨 岩木川、沖館川、十川 平成 3年 9月 台風19号 りんごの大被害 11年 集中豪雨 浅水川、後藤川
1)昭和44年8月 台風9号による堤川の氾濫
この台風9号について、東奥日報社編『よりよい明日のために!!災害の記録』(青森市・昭和45年)によれば、黒石市など二人が亡くなった。青森市を流れる堤川が氾濫、桜川団地、大坂町、相馬町、栄町など浸水。県全体の被害建物は、全壊流失11棟、半壊8棟、床上浸水6349棟(27804人)、床下浸水9310棟(44490人)、農作物関係、農業用施設、河川の堤防決壊678ケ所など被害総額20億円にのぼった。東北本線、奥羽本線、大畑線は一時不通、各地で停電、通信網が乱れた、と、ある。
2)平成3年9月 台風19号りんごの大被害
台風19号については、平成3年台風19号災害記録誌編集委員会編『台風19号その記録と教訓』(青森県総務部消防防災課・平成5年)から、そのまま引用する。
初めて経験した台風 弘前市 三省小5年 三上弘憲
『翌日、すさまじい風と音としん動で目が覚めました。台風が来たのです。「来たぞ、来たぞ」ぼくは、そう思いながら窓から外の様子を見ていました。木々は折れ、どこの家のものかトタンが飛び、となりの家では窓ガラスがわれ、ぼくたちにまざまざと風の力の強さを見せつけたのです。このとき、ぼくは初めて知りました。これが台風というものなのだと。『台風の現在位置は。今後の進路は。被害の状況は。』家族のだれ一人としてテレビからはなれる者はいませんでした。もちろん、ぼくもです。 あれから何時間すぎたでしょうか。風がおさまったころ、父が畑へ入ってみるというので、ぼくもついて行きました。畑に着くか着かないうちに 「ああ、落ちでまってらでば。」と言うのです。見ると、まさに赤いジュータンでもしいたかのように、りんごがあたり一面に落ちていたのです。 「これじゃあ、生活していけないな・・・・・やりたぐね。ばかくさい。今まで何のためにやってきたのか・・・・。」 と、どなるように父は言ったのです。ぼくはそう言う父に一言も答えることはできませんでした。台風が来れば近くの川があふれ、それを見て回れるからおもしろい、学校がこわれれば勉強しなくてすむからうれしいなどと、自分の楽しみだけを考えていた自分がはずかしくて。家族の生活をささえている父の不安な気持ちなど、これっぽっちも理解していなかった自分がなさけなくて。その日の夕食は、暗く静かなものでした。と、突然父が、 「出かせぎに行ぐしかねえな。」と、ボソッと言ったのです。肩から力が抜け、こんな父を見たのは初めてでした。父のその言葉の後に続いて言う者はいませんでした。ぼくは、あまりの静けさにたえられず、 「お父さん、あしたりんごひろいするの。」 と言い出すと、 「おまえも手伝ってもらねばな。」 と張りのある声で言ったので、少し安心しました。 翌日、 「よし、行くぞ。」 と元気よく父に声をかけられ、家族全員で畑へ向かいました。きのうは落果りんごの多さにびっくりして気がつかなかったのですが、あの大きな木が根こそぎたおれたり、さけるように折れているのを見て、僕たちの気持ちはまたしずみました。やりきれない気持ちのままりんごをひろっていると、父がりんごとりんごの間に傷一つついてない、すっくとのびたきのこを見つけたのです。父はそれを、あまく、赤く実った、かわいいりんごのように取ると、 「ひとつぐらい楽しみをもってひろおうよ。」 と言ったのです。 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。」 と母は父をおこりましたが、ぼくには父の気持ちがわかるような気がしました。 りんごが落ちたことをいつまでもくやしがっていてもしかたがない。一生懸命やっていれば、またいいこともあるだろう。今はまず後ろをふり向かず、前をみて進んでいこうという意味だったのではないかと。 夕方、まだおちているりんごはあったのですが、明日もまたひろうことにして家へ帰りました。家の庭に落果りんごの入った箱をつみながら、ふと、「これがみんな何か月後には人の手でもぎ取られるはずだったのに、かわいそうだ」と思うと、胸がぎゅうっとしめつけられる思いがしました。ぼくにとってはおもしろい台風が、父にとっては生活をおびやかす悪まのようなものだったのです。そんな父の気持ちもわからずに「来ればおもしれだなんて言って、すまないと思っています。 今年とれたりんごを売って得たお金で支払うという約束で、農協からは袋や農薬のお金を借りているそうです。今は、残っているりんごだけでも育てていこうと言って、父は昼夜わすれてあとかたづけにがんばっています。ぼくも家族とともに父を応援していこうと思っています。がんばって、おとうさん。』
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